「一日道中記」狂綺堂主人

(=岡本綺堂)明治二四年十一月六日〜一〇日/東京日日新聞


(前略)

 又もや車を走らせて浅草に向ふ、イザと下立ちて歩行けば例(いつ)も変らぬは仲見世の繁昌なりかし、両側に列(つら)ねたる店、中央(ただなか)を歩む人、唯だ雑沓と云ふ外なく、是れも御佛(みほとけ)の功力(くりき)ぞと思へば坐(そぞ)ろに両の掌合はさるる心地こそすれ、左側の店には年若き女子のあまた、名さへ優しき紅梅焼を売るあり、伽羅の袖の香は遠く伝へて路行く人の足を留めんが為めか、色こそ見えねと云ふ心には似るべうもあらず、白き髭の頬のあたりに長く垂れたる三千丈はいざ知らねど、衣食の愁に因って此の如く長しとは一目にも知らるる買卜(ばいぼく)の翁、筮竹サヤサヤと振りて、此度の地震は必らず其の原因(おこり)なきにあらず、霜を踏で堅氷(けんへう)到る、とは易の面に歴然たりと咳一咳(しはぶき)して述立つる、写真舗(しやしんや)の店前に佇立む三四人の娘子、時移る迄去りもやらず、写真見ることに余念なく。チョイと凌雲閣の写真があること、ヲヤ上野は好く写つてることねェ。など云へども心は此処に在らざるべし、少し小側(こわき)に市村座新狂言の写真多く掛連ねてありき。

(中略)

 凌雲閣は高く聳えぬ。廻(めぐ)り廻りて登り行く、過ぎしころ世の浮男(うかれお)を騒がしたる美人とやらんの写真(えすがた)あり、名にし負ふ小川一真氏の手に係れば定めて王昭君の恨みは無からまし、いづれも雲髪(うんびょう)花顔(かがん)さても鮮やかなるものかな、一々肩に投票の点数を記(しる)せるが千点以上の者も尠からず、されば千人の眼(まなこ)は此の一身に集りしものか、反魂香(はんごんこう)に泣く武帝、馬嵬坡(ばかいは)に迷ふ明皇、今古其人なきにあらず、然るに如何なる者が如何なる所存にやありけん、右の傍(ほとり)にそれぞれ鉛筆にて批評を加へたり、或は西瓜の如しと云ひ、或は鮒の如しと云ふ、言語に絶えたる怪(け)しかる振舞や、物の哀れ知らぬにも程こそあれと打呟きて登り行けば、漸くにして頂上に到りぬ。
 閣は高く、遠く四方(よも)の秋を望む、夕暮の烟りおぼろなる間に落葉したる山も見ゆるなり、雲井を渡る雁(かり)も見ゆるなり、青海も浅黄になりて秋の暮と詠みしはこゝなりけん、遥かの海原は水天彷彿万里家を懐(おも)ふの人こゝに登らば白雲秋風の恨みは弥増(#いやま)すなるべし、望遠鏡数箇を据え一銭を取りてこれを貸す、稚(おさな)き男の児が父とも見ゆるの袖をひきて、あなたの木立一ツ隔つる北の方(かた)は何処(いずく)ぞと問ふ、要なき事を尋ぬるものかな、あれは恐ろしき安達ヶ原ぞと云ふ、稚き者は心無ければ打ち頷く。
 閣を下れば見世物の鳴物ドンチャン耳を貫きて田舎漢の魂を駭(おどろ)かす。


 東京日日新聞記者時代の岡本綺堂の執筆した記事「一日道中記」(一)〜(四)(明治二四年一一月六日〜一〇日)から。綺堂は団子坂、根津神社、上野、浅草とたどっているが、ここでは浅草に関する記述から一部引用した。

 前半、仲見世の易者が「此度の地震」について占っているが、これは明治二四年十月二八日に起こった濃尾大地震のこと。当時、濃尾地方の情報はなかなか東京まで伝わらず、「岐阜ナクナル」(東京日日)という衝撃的な記事が東京で報じられたのは、地震から二日経った三十日のことだった。綺堂が十二階の百美人について流麗に綴っているその上には、手描きの震害の図が大きく掲載されている。当時はまだ、新聞が報道写真を掲載する技術はなかった。

 仲見世を始め、当時の浅草は写真家や写真師が多く店を出していた。綺堂の文章からは、十二階や上野の写真もまた店頭に飾られていたことがわかる。
 百美人写真はこの年の夏から十二階に展示された。新橋や赤坂、吉原などの芸者の写真を百枚飾り、登覧客に投票を行なわせたもので、いわば美人コンテストの走りだった。「鉛筆にて批評を加へたり」というおもしろい記述が見える。どうやら百美人写真の横には鉛筆で落書きをした者がいたらしい。
 小さな子供が「あなたの木立一ツ隔つる北の方は何処ぞ」と尋ねているが、これは十二階の北にあった「吉原」のこと。父親はそれがいかなる場所かを説明するわけにもいかず、鬼婆のいる安達ケ原だとごまかしている。(2001.06.01)



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