口上





 明治の東京に関心のある人なら、浅草凌雲閣、通称十二階の名前を聞き及んだことがあるだろう。さらに詳しい人なら、そこは明治・大正を通じて日本で一番高い塔であり、日本初のエレベーターがあったこと、そして関東大震災で無惨にも崩れたことも知っているだろう。さらに、それは「押絵と旅する男」の舞台であり、「帝都物語」の始まりの場所であり、「サクラ大戦」に登場する大正ロマンあふれる風景でもあることを付け足すこともできるかもしれない。
 わたしは十二階の姿を「おもいっきりテレビ」で見たことすらある。それは九月一日の「今日は何の日?」だった。関東大震災で倒壊したその姿は20世紀デザイン切手にも収められた。震災から八十年近くを経た今もなお、十二階は失われた明治・大正の東京の象徴であり続けている。

 が、いったん十二階の資料に踏み込むと、明治の浅草人が空気のように承知していたさまざまなできごとを、自分はまるで知っていないことに気づく。
 何を知らないのか。たとえば、久保田万太郎の次の句を見よう。

  十二階
五階目に蓮咲くけしき見出でけり (昭和三年)

 これだけの句に、すでにわからないことがいくつも織り込まれている。なぜ五階目にけしきが見えるのか。蓮の花が咲いていたのはどのあたりなのか。なぜ昭和三年なのか。
 この句に近づこうとすると、たとえば、浅草十二階には各階に窓が開いていたこと、そして内部の階段は八階まで、壁に沿うように仕組まれていたこと、十二階を登る者は、その窓から見るともなく外を見ることになったこと、さらに、そのいくつかはめくら窓と呼ばれて、木板がはめられて機能していなかったことを知ることになる。
 蓮はどこに咲いていたのか。十二階の南東側、浅草公園のあちこちには池があり、そこには蓮がいちめんに咲いていた。明治二三年八月二三日の郵便報知は「浅草公園の池の蓮は水も見へさる程いちめんに葉を揃へ目下既に花の盛りを過ぎし位なるが尚ほ観るに足る」と報じている。また、浅草十二階が建った当初、その北側は蓮の咲き乱れる浅草田甫であり、明治三〇年代にもその名残りがそこここに残っていた可能性があるだろう。あるいは十二階の東にあった花屋敷も、蓮地の候補として考えられるだろう。

 久保田万太郎はなぜ、昭和になってからこのように十二階を追想しているのだろう。それを調べていくとほどなく、久保田万太郎が大正一二年九月二九・三〇日の時事新報に「十二階」という小文を書いていること、それは崩れ残った十二階が工兵隊によって爆破された日(九月二三日)から間もなかったこと、それが書かれたのが被災後の「牛込の仮寓」だったことを、発見することになるだろう。その小文の内容からは、久保田万太郎は明治三五、六年ごろに十二階のすぐそばに住まっていたこと、それはその領域が銘酒屋の並ぶ「十二階下」として名をはせる少し前だったことも伺い知れるだろうし、震災よりも以前にすでに、万太郎少年の憧憬となる浅草のさまざまな風物がいくつも失われていたことも分かるはずだ。

 十二階に近づくにつれ、わたしたちは、久保田万太郎が書くような明治・大正の浅草の急激な変化を、そして変化にもかかわらずそこに確かにあった空気のようなものを、改めて捉えなおすことになる。失われた空気には匂いがある。この「浅草十二階計画」は、十二階にまつわるできごとをできる限り集め、十二階のまとっていた空気を少しでも嗅ぎ取ろうとする試みである。

 いっぽう、知識を集めるにしたがって、単純に知識だけでは割り切れない謎や矛盾もはっきりしてくるだろう。十二階に関する記述の間には、必ずしも整合性があるとは限らない。それは、塔を語ることばが、明治・大正の間に変化を経ていることに起因している。すでに変化のいくつかは拙著「浅草十二階」(青土社)で明らかにしてあるが、この「浅草十二階計画」では、拙著からは漏れた矛盾にも、できるだけ分け入っていこうと思う。

 十二階を考えることは、単なる郷愁ではない。十二階をめぐって明治・大正期に語られたことは、どのように未来を(すなわち現在のわたしたちの言説を)拘束しているだろうか。逆に、現在十二階についてさまざまな言説をつむぎ出しているわたしたちは、かつての十二階をどのように読み替えつつあるのだろうか。十二階を考えることは、十二階とわたしたちをめぐる、そのような対話でもある。

 WWWという場においては、最初から整合性のある文書を大量に掲げるのは似合わない。むしろ随時文書を追加更新することで、当初の考えに亀裂をもたらし、さらなる謎や矛盾に立ち会うことこそを目指そう。

(細馬宏通 2001.05.12記)




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