月別 | よりぬき


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▼ゼルダの魅力のひとつに、「別解」がある。たとえば、デクの樹のクモの巣はどうする?というときに、ぼくは上からジャンプした勢いでぶち切ってたんだけど、じつはたいまつの火をつけたらオッケーだったことにあとできづいたり、とか。▼で、FCGAMEM1見ると、そのたいまつの火をつけるにもさらに別解があることがわかる。Rボタンでしゃがむ人もいれば、わざと瀕死になってうずくまる、という人もいる。さらに、デクの棒でジャンプアタック、もあるらしい。▼あと、風車小屋前からくすり屋前にどうやってジャンプする?とか、屋根の上の人に会うには?とか。

▼興味があるのは、こういう別解って、ひとつひとつの別解のための条件を細かくプログラムするのか、それとも、主人公の移動能力や道具使用能力とアタリ判定を決めれば、自ずといろんな別解が生じるのか、ってとこですね。もし後者なら、アタリ判定空間を設計した時点で、さまざまな別解の可能性が用意され、それはときとしてプログラマも予測できないってことじゃないですか。だとしたら、道具や空間をプログラムするってすごいことだな。▼ゼルダではニワトリも道具になる。

19981210
▼で、ゼルダなのだが、おとなになったとたん世界が邪悪になって、わー、みんなどうしたんだよー。子供のときに城下町で会った人とかに別の村で会うと、別になんのイベントも発生しないのに、ションベンちびりそうになる。なにが恐いって自分の知らない時間の流れってのが恐い。たぶん、このゲームにはエンディングってものがあるんだろうけど、7年の空白ってたぶん、埋まらないんだろうな。▼しかし、NIFTYのFCGAMEM1あたりを見ると毎度感心するのは、「ハイラル城にはいれません。どうすればよいのでしょう?」「はい。少女の横にツタのようなものがありませんか・・・」といった文字列だけのやりとり。なんちゅうかこの種のヒントって、ないと困るけど、みなまで言ってほしくない。手がかりは欲しいけど、その結果までは言ってほしくない。その寸止め具合を答える側がじつによくわかってる。

▼で、こういうのはことばで伝えるからいいのであって、同じことを「 少女の横のツタ画像」を使って説明したとしたら、たぶん、サービスのしすぎなんですね。「ツタのようなものが」とことばで言われるから、かろうじてヒントの身分でいられる。

▼以前、レンタルビデオ屋で、携帯電話を使ってる人を見かけたことがある。電話の向こうの人が、ビデオのありかを指示しているらしい。「いま○○コーナーやねんけど。上から2段目?あ、あったわ」てな調子で、電話のこちらの彼女はみごとめあてのビデオを探りあてた。

▼ことばが含んでいるビット数って画像に比べてすごく少ないんだけど、それがことばの向こうの相手の指を確実にうごかしちゃう。3Dスティックが城への抜け道を探りあてちゃう。いや、もちろんゲームだから、動きのバラエティはごく限られてる。でも、3Dスティック空間で、ああにもこうにも動けるのに、なんでこう限られた手がかりにあっという間にたどりつけちゃうんだろう。▼しかも、ゼルダのおもしろいところは、その「限られた手がかり」ってのが、じつは複数あることだ。(続く)

19981209
▼なんだかんだ言いながら、結局ゼルダにハマりつつある。(日記が滞ってるのはそのせい)。やっぱ水はだいじだよ。ゾーラ族の街にきて飛び込みやったりハイラル湖でぷかぷかするうちにずいぶんとキモチよくなってきた。陣内秀信氏が「東京の空間人類学」で、浅草の瓢箪池を例に挙げながら、街を抜けたところに水場、っていうことの気持ちよさを書いてるけども、やっぱ街には池、もしくは池の気配が必要なり。キリコの絵に海の気配があるように。

▼ぼくの通ってる大学には、本部をぐるりと囲むように環濠がある。藻が大発生したり鯉を大量に放したりと、けっこうメンテナンスがたいへんそうな濠なんだけど、学園祭のときに、ボート部の人に乗せてもらって、この環壕の水上から建物を眺めてみた。ちょうど時計塔のあたりに陽があたっていた。ボートをぐるぐる回してもらうと、きれぎれの雲もぐるぐるまわった。

▼浅草のことを調べていくと、まちがいなく喜多川周之という人の文章とコレクションにぶちあがる。街への愛着と豊富な文献知識に裏打ちされた氏の文章を読んでいると、この人の知識の底知れなさに驚かされる。氏が亡くなって、いまではそのコレクションは江戸東京博物館に所蔵されているらしい。▼陣内氏の著作の中に、喜多川氏の案内で隅田川で船遊びする下りがある。うらやましい限り。

19981208
▼酒の席で高谷先生と話す。高谷先生は、弁当食ってるときも自転車であぜ道を行くときも会議で「ちょっと暴言を吐きますと」というときも、とっても味があって気になる先生だ。▼高谷先生は守山育ちでぼくは西宮の団地育ちだ。先生とぼくの決定的な違いはご先祖様がいるかどうかだ。先生が学生に「ええお母さんになりなさい」というときは「そうしないとご先祖様に申し訳ないではないか」ということだ。▼ぼくは、ご先祖様を探すにせよご先祖様と無縁に生きるにせよ、ご先祖様のいないところから始まる。生まれ育ちの違い、とはそういうことだ。
19981207
▼会話分析研究会(っていうのに参加してるのだ)でイギリス英語のトーンの問題。 Coulthard & Brazil (119982)によると、イギリス英語ってトーンが3つなんだって。高い・低い・真ん中。で、トーンが低くなると一区切り。対話でもそうなんだってさ。で、会話とは、二人でひとつのメロディを作って低いトーンまでオチをつける作業なのだ、というのだが、ほんとかなあ。

▼たぶん Coulthard & Brazilの言ってる「トーン」の高さってのは、かなりおおざっぱなもんだとは思うんだけど、ひとつ思い出すのは、モンティ・パイソンのギャグで、しばしば、真ん中とか高いトーンで会話が止まるやつ。あれは内容もさることながら、トーンが会話の中断を感じさせるところがおもしろいのかもしれない。

▼声の高い人もいれば低い人もいるわけで、トーンの高低はその人の声域によっても変わるだろうから、トーンの問題はじつはそう単純じゃない。

▼もし二人の真ん中のトーンがそれぞれ違う高さだった場合、会話の最中に、二人の声の高さは、寄り添ってくるのか、それぞれマイペースなのか気になる。ここから個人的妄想なんだど、ソプラノとバスのようにまるで声域の違うひとは、もしかしたらオクターブで音程合わせるように声を出してるんじゃないか。あるいは、漫才のツッコミって、こういうトーンのメロディを破るように発音してんのかも。音痴とよばれる人はじゃあどうすんだ?とにかく、トーンにはいろいろありそうだ。電車の中で関西弁聞いてると、イギリス英語に比べてなんとトーンの高さにバラエティがあることよ。このバラエティに何か規則めいたものがあったらおもしろいんだけど。
19981206
▼じつはInternet Explorerでチェックしてなかったんだけど、かえるさんレイクサイドの表示がここ何話か妙になってました。えー、それをなおしましたんで、IEユーザーの方もどうぞご贔屓に。それはともかく、geocitiesの別ウィンドウ表示がスクリプトエラーを起こすことがあるんですが、こっちは原因不明。

▼ゼルダ64を昨日からやってるんだけど、うーん、マリオ64のときほど心躍らないぞ。▼いや、いろいろおもしろいんです。▼360度プレイできるのに、なぜボスキャラまでたどりつける?なぜここのハマリがきつい?などと、ほとんど「誰のためのデザイン?」って感じのアフォーダンス満載、とか▼そうか燃やすのか早く言ってくれ、とか、あー門番に40ルピー払ったわたくしっていったい・・・とか、これかー、とか、これじゃまんまCMじゃないのか、とか▼なのだけど、つまりはハイラル平原や牧場走ってるときがいちばん楽しいことからもわかるように、不器用なわたしは意外なことに、アクション志向だったのだった。いや、アクション以前エアロビアスレチック志向だったのだった。あちこち走ったり飛んだりしてりゃいいんだよー。謎解きなんか二の次でいいんだよー。ぺかぺかのお星様が欲しいんだよー。もう神様が3体でも4体でもいいんだよー。もったいぶらないで城に入れろよー。射的の方がおもしろいぞー、このー。▼というわけで、わたしは城下町にいるのです。

▼まあもうちょっと先をやってからまたあれこれ書きますが、それにしてもいつもながら世の中すげえと思うのは、NIFTYのFCGAMEM1あたりに行くと、こういうゲームを3日くらいでクリアしちゃう人がいるってことだ。で、発売後2週間もたつと、ぼくのようなヘボプレーヤーが陥りそうなハマリについてはほとんど全部解法が書いてある。▼いやあ、しかしわたし老い先短いので、こういう「三国志」と「失われた時をもとめて」全巻読んでまだお釣りがきそうなくらい時間投入するゲームって、もう一生に何度もできないと思うんだよなあ。なんて、そういうケチな時間感覚ぶっとばすくらい無駄無駄無駄な時空間にいさせていただきたいもんです。
19981205
かえるさんレイクサイド第二十九話「エレベーターの霧」。 マシヤのページではご来店の方に「かえるメーター」をもれなくプレゼント!

▼夜中に筆ペンで猫の絵を描いて遊ぶ

▼会話に現れる、要素とカテゴリー。▼たとえば、ゲーム談義をしていたとしよう。どんなゲームにハマっているかをお互い話しているうちに盛り上がってきた。そのとき、A君が「でも、結局それって、ギャバガイじゃないよね」と言う。▼「ギャバガイ」が何かはわからないが、なんだか否定的な発言に聞こえる。たぶん、ゲームにはギャバガイに入るものと入らないものがあって、A君にとっては、ギャバガイに入るのがいいゲームなのだ。▼たぶん、ギャバガイに入らないものの中にもいいものはたくさんあるのだ。でも、「結局それって、ギャバガイじゃないよね」なんて言われると、なんだかギャバガイに入ることがこの世でいちばん価値のあることみたいに思えてくるじゃないか。意地でもギャバガイに入ってやろうと思うじゃないか。▼するとB君が「え、ギャバガイだと思うけど、おれは」と反論する。どうやらB君はギャバガイが何かを知っているらしい。「ま、広い意味で、ってことだけど」ギャバガイには広いのと狭いのがあるらしい。▼「じゃ、たとえばゼルダってギャバガイか?」「だってマリオ64はギャバガイでしょ」「あれのどこがギャバガイ?」「だって3Dスティック使ってるし」「そしたらファミコンはギャバガイじゃないわけ?」「ゲームによるけど」▼あいかわらずギャバガイが何かはわからないけれど、さまざまなアイテムがギャバガイに放り込まれることで、ギャバガイは次第に輪郭を帯びてくる。

▼会話の中に、何かアイテムが現れる。アイテムは「ゼルダ」のように具体的なものでもいいし、「それ」と指されるだけの、あいまいなものでもいい。アイテムに対してカテゴリーが現れる。たとえば「ギャバガイ」。カテゴリーの輪郭はあらかじめ定義されているわけではない。カテゴリーがアイテムを含むかどうかが論じられるに過ぎない。アイテムの回りだけ、輪郭が現れ、その輪郭を、聞き手はああにもこうにも延長しながら、そのカテゴリーが何かを考える。▼カテゴリーに入らないことをめぐって争いが起こることもある。「でも、結局それって、ギャバガイだよね」という風に。意地でもギャバガイに入るもんか、と思う。▼会話に現れるカテゴリーとは、アイテムを入れてみたくなる器だ。アイテムを入れ、アイテムを入れ損なう。「ギャバガイじゃないよね」「ギャバガイだと思うけど」器をいじる人々。▼「で、ギャバガイってつまりなんなの?」器を投げる人。
19981204
▼いつもしゃきっとした対応に接して心洗われるクイック・ガレージ京都に行ったあと、百貨店の地下で弁当を買って琵琶湖線で食べる。琵琶湖線沿線には、瀬田を渡り、近江富士、長命寺、安土山を仰ぎ、などなど、それなりに旅情アイテムが点在しているのだが、徹底した山と田園の風景、というわけでもなく、新興住宅地がけっこう多い。客の多くが通勤通学なのか、昼どきでも、弁当を広げて旅の気分、という感じの人はほとんどいない。▼それでも旧式の車両(その色から、かぼちゃ、と呼ばれている)には、座席横にお茶を置けるくらいのスペースがあって、なんだか昔懐かしいプラスチックのお茶入れなんぞが似合いそうなのだが、いまは、おーいお茶245g缶を置いてある。▼彦根や米原ではホームで駅弁を売っている。旅情エリアはこのあたりから北に広がっているのだろう。だいいち琵琶湖線というけれど、じっさいに琵琶湖が見えるのは、瀬田川の橋をのぞけば米原より北だけなのだ。
19981203
▼猫がばたばた暴れる。酒をひっくり返す。壁はぼろぼろだ。これでいいのかにほんのねこ。怒ろうと思うと膝に乗るし、キーボードを打とうとするとキーボードを横切る。▼おじゃる丸の「プリン賛歌」の「ソナタ」っていうことば。ソナタはあなたのソナタなんだけど、ソナタ形式のソナタのようでもあり、sus4の合唱隊的歌声で「まろとソナタ」なんて唄われると、こなたもそなたも探ろうにもソナーのかなた。▼新しい実験。1分の発話の間に起こるしぐさに息づまる。
19981202
Alter egoをちょっとだけ改変。▼何人もの登場人物が現れる話をするときの、話者の手の動きのおもしろさ。たとえば、「Aさんがいてな」と言って両腕を伸ばす。「で、こっちにBさんがいてな」このとき、右手が左から右に移動する。「Bさんっていうのはクラブの先輩で、まあわりと人気あるていうか。」左手は動かない。と、打ち出の小槌を振るように、左手が上がる。「で、二人がつきあってるとするやん」右手が左右を移動する。あたかも左手が左右の関係を振りだしたように。右手は、Bさんを示す役から、指示棒の役に変わる。▼左手が動かないことで、話者はBさんの話に集中できる。あるいは指示棒となった右手の行く先を定められる。左手は記憶を預けるための身体記憶装置のようになっている可能性がある。
19981201
▼ひさびさの更新。かえるさんレイクサイド第二十八話「冬のお月見」

▼藍川由美「これでいいのかにほんのうた(文春新書)」を読む。

▼ じつは藍川由美のCDはいくつか持っていて、久しぶりに聞き直してみる。本には載ってないけど、彼女は「古関裕而歌曲集」(COCO-8001998)の「船頭可愛や」のラストで「わが夢を」と唄うとき、「を」の音を、「uuuuoooooooooo」と微妙にフォルマントを変えながら唄う。そこに含まれている母音変化の豊かさにはハッとさせられる。そうか、「を」を「wo」と唄うとき、それは「u」から「o」への移行をどう時間軸上に配置し、響かせるか、という問題が出てくるのだな。これは、いわゆる音響派が音のテクスチャを考えたり、mspを使った音色中心の曲を作る感覚に似てるじゃないか、なんて思う。

▼ で、本の方だ。彼女が古関裕而などのオリジナル楽譜を読み解くうちに発見した、作曲家や作詞家の日本語の発音への配慮の話はおもしろいと思う(そういえば、橋本新吉の「古代日本語の音韻の発音に就いて/岩波文庫」も出てくる)。しかし一方で、この本に感じられる楽譜中心の考え方や日本語の歌い方のスタンダードを作ろうとする情熱には、正直言ってそれほどピンと来ない。

▼ たとえば、ピョンコ節のように付点十六分でも三連符でもない、しかも演奏者によって(ときには一曲の中でも)微妙にノリの違うものは、音符になりにくい。当時の記譜が八分音符に開いてあったり、逆に付点十六分にしてあるのも無理からぬことだ。彼女は、林伊佐緒が譜面に付点音符で書きながら自分でピョンコ節で唄っていたことをややネガティブに書いてるけど、それは違うんじゃないか。むしろ記譜に現れないリズムを作曲者自らが明らかにしている行為だと取ればいい。この歌がよく唄われたことを無視して「緊張感を欠いた音楽に聞こえる」と切り捨て、リズムや日本語の乱れの話につなげるあたりも、ちょっと楽譜中心過ぎるなと思ってしまう。

▼へそ曲がりなぼくは、彼女が唄う、発音に気を配った「モスラの歌」もいいけど、ザ・ピーナッツがとんがった声で唄う「モスラの歌」の湯加減の方が熱帯で好ましいなあと思っちゃったりする。あるいは、日本語が古来持っていた発音の違いを思いっきり平滑にして、しかも歌詞の世界は昭和初期、っていう戸川純の歌の魅力を思い出しちゃったりする。

▼ それはそれとして、この本にはいろいろおもしろい話がある。たとえばリズムがピョンコ節漬けだった戦中下に、なぜか「麦と兵隊」がちゃんと付点で唄われていたという指摘。十六分+付点十六分音符が持つ、前のめりにしゃっちょこばった感じは、じつは寮歌などにもよく使われるのだが、ピョンコ節とは違うもう一つの日本風リズムとして考えるに値すると思う。このリズムを気持ちよく笑ってくれちゃったのが、クレージー(PUFFYではない)の「これが男の生きる道」。って話は Cartoon MusicのBBSに書いたのでそちらを。ついでに、クレージー、ピョンコ節、リズムの揺れといったことばにピンときた方は、最近ホンダのCMでカバーされている「ゲバゲバマーチ」の話もどうぞ。

▼ ところで、ピョンコ節と十六分音符を唄い分けることで、見事な浮遊感を出している楽曲がある。それは他ならぬ「スーダラ節」だ。ちょいと一杯のつもりの「緊張感を欠いた」ピョンコ節から十六分音符(ときにはそれよりももっと詰まっている)のスーイスーイスーダララッタへとなだれ込むときの、根拠のない浮き加減。あー、植木等が泳ぐとステージの上が雲になるよ。でもそこははしご酒の果て、ベンチでゴロ寝のサラリーマンのステージでもあるのだ。▼戦時歌謡における国家称揚のピョンコのリズム。それを幼少時代に浴びた、青島幸男、萩原哲晶、そして植木等といった人たちが、ダメサラリーマンのテーマとして同じリズムをなぞり、十二分ならぬ十六分にわかっちゃいるけどやめられなかったのだ。そこでは、終戦というくさびによって戦時歌謡におけるピョンコ節が去勢され、それが倒錯した負の記号として「スーダラ節」に刻印され、十六分リズムとして異化されているのだということを、賢明な読者ならご推察のことと思うが(現代思想辞書風、以下略)。ともあれ萩原哲晶氏がこの二つのリズムをどう楽譜の上で書き分けていたのか、それとも口伝でリズムを伝えていたのかはとても興味のあるところだ。

▼ すいすい、で思い出したのが、この夏にTVでよくやってた、川上から山瀬まみが流れてくる金鳥水性リキッドのCM。あれは「すーいすーい」ではなく「すいー、すいー」だった。「すい」で水を掻く動作が完了して、「ー」で、そのまま流れに任せる感じが出てる。

▼ では、「すーいすーいすーだららった」というとき、「ー」の音によって持続しているのはどういうできごとだろう。

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