月別 | 見出し(1999.1-6)


19990131
▼「わかりやすい単語を使う」ことと「わかりやすい文章を書く」ことは異なる、という例。▼「したがって私たちがここで問題にすべきは、かつてあった多様性の抑圧ではなく、もともとなかった多様性が事後的にあったかのように見なされてしまう現象、つまり散種の多義化である。(存在論的・郵便的)」のだらだら化
▼「したがってあたしたちがここで問題にすべきは、かつてあったいろいろになっちゃうかんじの抑圧ではなく、もともとなかったいろいろになっちゃうかんじがあとからっていうかにあったかのように見なされてしまうできごと、つまり散種のいろんな意味になっちゃうみたいに変えたりっていうか。(存在のおはなしっていうか・郵便っていうか)」

19990130
▼池波正太郎のうまいもの話にはいろいろあるが、たいていは、うまい飯があってうまい素材があって、飯に素材を突き込んで醤油をたらしてかきまぜる、といったごく簡単なものだ。▼そこで、いかにも池波正太郎風なのをひとつ作ってみよう。▼まず、ちりめんじゃこをごま油で炒める。このときたっぷりきざみネギを加える。じゃこがあまりかたくならないところで火を止める。
「肴になりますかな、こんなものが」
「うふ、ふふ・・・」
飯にのせ、醤油をさっとかけていただく。
「うまい!!」
のひとことが出るかと思って待っていると
「妙な・・・」
である。
(なんということだ、おれとしたことが)
である。
▼さらに、ちりめんじゃこを揚げた油を洗わずに、それで卵を炒る。少しだけ塩をする。じゃことネギの風味が卵に移る。
(これは・・・)
である。
(してやられたわい)
思わず舌打ちが出る。

▼で、あいかわらず「存在論的・郵便的」を読んでいる。どうもこの本を読んでると、あれこれ考えが散って(それとも、いろんな電波が聞こえてくるので、と言おうか)まだ一章。こういう本をすっと読み通そうと思うと、それこそ、いったんパフォーマティブなことばをコンスタティブにかっこにくくるべし、と腹をくくらなければならない。ぼくにはくくる腹もないので、だらだらと読む。▼会話に現れることばの運命。会話はパロールの代表でありながら、会話にはエクリチュール的な現象が現れる。▼たとえば、「したがって私たちがここで問題にすべきは、かつてあった多様性の抑圧ではなく、もともとなかった多様性が事後的にあったかのように見なされてしまう現象、つまり散種の多義化である。」という文に見られる、異なる時間からの視点移動をめぐる考えは、そのまま、会話の「話題」について言える。「したがって私たちがここで問題にすべきは、かつてあった話題の抑圧ではなく、もともとなかった話題が事後的にあったかのようにみなされてしまう現象、つまり会話の多義化である。」

▼デリダ流の、パロール/エクリチュールの区別は、もはや、音声/書き言葉、という区別を離れつつある。▼たとえば音声。このサンプリング時代では、音はいちいちもったいをつけてかっこにくくられ、ぺらぺらのぺらであることを保証される。パフォーマティブなフレーズはコンスタティブなかっこに入れられ続けたあげく、「ああ、例のアレ」的な納得さえ生みつつある。つまり、サンプリングというジャンルの中で、貧しいパフォーマティブな機能さえ担いつつある。むしろ、困難なのは、ひとつの音声のもとに多様性が見出されるという運動、つまり「多義化」だ。だからこそ、大谷安宏氏の仕事が新鮮なのだ。多義化の許されない場所で多義化を行使する音声を考えること。あるいは、何がかっこにくくられたかもわからぬほど、超イントロクイズの勝者にも答えられないほど、あっけないサンプリングを考えること。▼たとえば打ち言葉。キーボードを介して表音と直結し、さらに、チャットという時間の中に投げ込まれ、決まったフォントで表示される。そうした場所での打ち言葉を、音と書のどちらに分類するのか。▼「失敗」「間違い」について。「失敗」「間違い」ということばは、事後的な視点から見出される。それを現在から問えば「失敗可能性」とか「間違い可能性」といった持って回った言い方になる。この前の藪田氏のミスジチョウチョウウオの発表で、彼はミスジチョウチョウウオが尻尾を上げる行動を、単なる「間違い」と記述することに抵抗した。それは、チョウチョウウオが行動した時点では、それは「間違い」として捉え得ないからだ。▼「失敗」は事後的に表れる。しかし「失敗可能性」が予見される。いや、すっぱり「賭け」といえばよいのではないか。


19990129
▼「Textmedia」をひさびさに送信。内容はカットアップのみ。もしよろしければこちらで登録を

▼じつは、前々から、ゲストブックAlter EgoにWWWページのURLやメールアドレスを書いてくれた人にどういうフィードバックをしようか考えていた。URLに関しては、新しいのをみかけたらとにかく行ってみることにしている。でも、メールに関しては、これまでこちらから何か送ったことはなかった。▼で、今回のTextmediaは、ゲストブックに記帳してくれた人全員にも送ることにした。▼まずゲストブックのメールアドレスをリストアップするCGIを書き、重複を削り(じつはあとで気づいたんだけど、重複チェックは「まぐまぐ」がやってくれる)、アドレスを10人分ずつ登録。なんだかんだで新規登録が150人近く、これまで登録してくれた人とあわせると800人以上になった。
▼ところが、ひとつ失敗だったのは、「まぐまぐ」では読者登録をすると読者に以下のような「登録されました」メールが行く、というのを忘れてたこと。

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こんばんは、まぐまぐです。
メールマガジンの登録確認メールです。
お確かめの上、メモをお願いします。
※なお、この登録は、メールマガジン発行者によっておこなわれた
ものですので、発行者へ登録依頼をした覚えがないなど、登録に
不審な点がある場合、発行者へ連絡してください。
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●登録メールマガジン:
●マガジンID:
●データタイプ:
●発行周期:
●関連Webページ:
●発行者問い合わせ先:
●登録アドレス:
●登録日時:
●登録に利用されたコンピューターのIPアドレス:
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で、問題なのは、こちらで一括登録した場合、「登録アドレス」は先方のメールアドレスになるが、「登録に利用されたコンピューターのIPアドレス」は、先方の知らないIPアドレスになる(つまり、ぼくの使ったサーバ名だ)。▼これを考えに入れてなかったのはうかつだった。実際、「知らないサーバで不審な登録がされている」という内容のメールもいただいた。▼もちろん、「まぐまぐ」は基本的に当人が登録するシステムなのだから、これは「まぐまぐ」の問題ではなくて、勝手に一括登録したぼくの方が悪い。ぎょっとされた方、ごめんなさい。


▼もうひとつ問題はある。ゲストブックに記帳した人は、なにもメールマガジンのようなフィードバックは期待していない可能性がある、ということだ。▼そもそも、人はどうして、ゲストブックにメールアドレスを書くんだろう?単に礼儀だと思ってる人もいるかもしれない。匿名性が問題になる今日この頃だから、IDがわり、あるいは責任所在の表明だと考える人もいるだろう。▼じっさい、ぼく自身だって、誰かのゲストブックに自分のメールアドレスを書くとき、なにかの返信を強く期待しているわけではないし、これまで返信をもらったケースはほとんどない。▼そのかわり、geocitiesやらamazon.comやら、その他ぼく自身どこでメールアドレスを書いたか忘れてしまった経路を介して、まるでレンタルビデオ屋からの案内のような商業メールが毎日のように来る。「身分のはっきりした発信者」が選ばれた結果がこれだ。▼そういえば、レンタルビデオ屋も、氏名と住所のセットをIDとして求めるシステムだ。▼かつてパソコン通信であったような、偶然以上必然未満、怪文書以上挨拶未満の個人的なメッセージのやりとりは、ぼくの周囲から消え始めている。

▼あらかじめしつらえられたメールボックスに分類できないもの、それでいてゴミ箱に破棄できないもの、分類を破産させるもの。そういう郵便の可能性について考えてみよう。それにはそもそも宛先があるか。それは開封されるか。開封、という行為がもはやクリックひとつになったこの世界で。

19990128
▼昨年出た大谷安宏氏の初CD「Brain Wash」(P@LE BLUE PB-0000)に書いた解説文をアップした。解説はさておき中身は名作です。▼戦国TURBただいまエリア105。

19990127
▼ときどき、いくつかの術語を覚え、つかいまわしながら(誤用しながら)、考えを進めてみたくなる。というわけで、前からつんどくだった「存在論的、郵便的」(東浩紀/新潮社)を読み始める。▼バロウズ読みなら真っ先に賛成したくなる「散種」ということばに、しかし、留保をつけたくなる。たとえば、かっこをつけたとたんに、「約束」という約束は空約束になり、「手形」という手形は空手形になるだろうか。書かれた瞬間、どんな未来にも、どんな時間Bにも行き着かない、そのような「約束」の放たれ方はありうるだろうか。ありうるとしたら、それはどんな舞台だろうか。▼空だと思った器から約束の時間が浸みだして来る。磨き抜かれた金属の底を水と見まがうように、約束が約束の時間に約束を投げる。そのような場所でなければ、どうやってカットアップを、ただのでたらめ以上のものとして読みうるだろう。そして、ただのでたらめ以上であることは、統一的な作品を意味するのではない。▼でたらめ、という現象は、予測しそこなうことでしか定義できない。予測しそこなうという記憶をもたないでたらめは、でたらめではない。▼他のどんな時間にも行き着かない約束に近いものとして、「約束は約束さ」というフレーズを考える。あ、これ、あがた森魚の歌だ。Kというイニシャルだったね。

19990126
▼ユリイカの2月号(いまでてるやつ)に「塔の眺め −浅草十二階というランドスケープ−」。とりあえず第一回は登場事物を配置という感じ。

19990125
▼動物学教室の藪田氏の博士論文審査会。これまで動物行動学で扱われてきた求愛などにおける「儀式的ディスプレイ」という概念に一石を投じる内容。ぼくたちが儀式、と呼んでいるものの中には、じつは相手の認知のあいまいさにまつわるいくつかのステップが含まれている。まず相手の雌雄がわかって、それからディスプレイが始まるとは限らない。ときには、雌雄もわからぬまま、とりあえず行動が投じられる。投じられた行動が資源として使われる。まさしく会話のような行動の応酬。▼ティンバーゲンが書いたような行動の連鎖を、もう一度、会話として読み直してみることができるのではないか。そんなことを感じさせる発表だった。▼山の上の食事。冬の雨と木の匂い。


19990123
▼日記メニューにフレーム版を追加。よりぬき日記にもフレーム版を作ったのでこれですみからすみまでばんばん読みましょう。なんちてじつは自分のために作ったんですが。よりぬき日記に「見聞きしたもの」追加。

19990122
▼アリス・B・トクラスがしたので今度はみんながします。というわけで、月の出をまってみんなのガートルード、ガートルードのみんなを倒し、惑星は裏返り、現在戦国TURBはエリア64。▼なんてかるく書いてますが、じつは第4話のアリスBがどうしようもなく強いので、ドリームキャストFAN買って、よほどスペシャルな必勝法があるのかと思ってちらちら眺めたら「妖精で十分に自軍を強化してから挑むこと」えー、それだけなのー?妖精たいにゃん一羽つかまえるのに10回くらい心の中でごめんなさい唱えてた弱気がいけなかっただけ?ってわけで、ごめんなさいを10回から1回に減らし、妖精捕りは全部なかまにやらせて(ヤなことは人にやらせて)、エリア2、阿鼻叫喚のたいにゃん地獄と化す!きゃーきゃーきゃーきゃー。BGMはダニエル・ジョンストンだよ。で、あっさり先に進みました。こうなりゃもう慈悲(なにさまだ?)も外聞も捨て、小心極悪のわたくし気がついたらつかまえたようせいのかず730、くまもうさぎもみなごめん。「あすにかかるはし」。やってくれるなあ。「はしのおもいで」までもらいにいってから、ようやくハタと気がつきましたよ、博士。▼それにしても、ときどきじゃどふぇあやふらんそわやおんなのこが洩らす「じごくだ・・・」ってセリフに、いやほんと、そうだよね、と思いながら、いつまでそのじごくを楽しんでるんでしょうかこいつは。いまはシドバレットかけながらしどばれっと撃ってます。はにらびゅはにりとはにふぁにさんでもに、うはー、全滅した。

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