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19990731
▼さて8/1からしばらく留守にします。WWWにアクセスできるかどうかわからないので日記もとりあえずお休み。▼置きみやげに。昔、現代思想に書いた「分かちがたい行為」。行動学と観察について。

19990730
English page of "Jaw harp and Voice DUO, A. Bruhin + K. Makigami" on 4th Sept. @Japanese traditional Sake Brewery.

▼というわけで、「口琴と声のDUO」の英語ページ作りました。英語ができる方にもおすすめあれ。▼さらに原稿。▼神戸芸工大のレポート採点。▼その他、郵便発送あれこれ。

19990729
▼銀行でTC、チケット代etc.。▼留守中のチケット配送をACTの中野くんに頼む。まもさんこと真本くんには猫の世話を頼む。▼原稿の続き。

19990728
▼原稿。田山花袋ふくらみすぎ。

19990727
▼エレベーター原稿をやっつけで追加して、高橋氏と打ち合わせ。そう、エレベーターに関する本をちまちまと書いているのだ、じつは。すでに二、三冊分くらいの資料はあるのだが、頭がまだ納得してない。▼京都駅ビルの11階から下を見下ろすと、人の様子がよくわかる。何を着ているか、どこに向かっているか、といったことが、豆粒大でわかる。50階とか100階クラスのビルになるとこうはいかない。この地上2,30mという、ほどほどの高さの感覚を覚えておくこと。▼アヴァンティの本屋で例によって山ほど。「東京人」8月号に淺草十二階の設計者バルトンの記事。来月5日には青山墓地墓参のあとパネルディスカッションがあるらしい。没後100周年だもんな。ぜひ駆けつけたいところだが、そのころは旅の空。

▼小説に感情をこめるのではない。感情を引き起こさせる小説を花袋は考えていた。それが成功したかどうかはともかく。

■眼の芸術、眼から頭脳に入つて行つた芸術。私は繰返して言ふ、眼から頭脳に入つて行つた芸術である。心の芸術ではない。感情の芸術ではない。
(田山花袋「卓上語」)

19990726
▼彦根Viva Cityで「ファントム・オブ・メナス」。しかし、長い予告編だったな。二時間くらいあるんだもん。本編はいつ?
▼帰りに3階の吹き抜けで、さっそくチャンバラに興じる子供二人。中央がエスカレーター用に丸く開いたこのばかでかい建物ってライトセーバー持って駆け回るのにいいよね。落ちんなよ。
▼南青柳橋を渡って開出今町の田んぼを見渡すと、向こうから波打つ稲の葉。川沿いに自転車で下ると、ほらほら、こっちの方がスターウォーズよりすごいじゃない。もうすっかり夏だよ。

19990725
▼びょんびょんと口琴GIFアニメ制作。というわけで、くどいようだが口琴とホーメイをたっぷり聞ける「ふたりは頭をびょんびょんした」9/4(土)を強くプッシュします。▼ディジェリドウ、口琴、ホーメイ、そのどれからも聞こえる上下の倍音の響き。とにかくいま倍音が気になってしょうがない。倍音に耳をすませろ!耳をすませるなら最高の倍音に。▼ちなみに関西ではこの日だけです。

▼そろそろ出国前の作業をあれこれ。オランダからネットにつなぐにはどうすればいいのか。まず電話のコネクタの形がわからない。まあ現地調達ということにするか。とりあえず、モデムに電流が来てパソコンがパーになると痛いので、ちょっと値が張るがModemSaverIIってのを買う。これで4芯のクロスと内外が変換できるから、なんとかなるだろう(と思いたい)。▼Compuserve経由でNIFTYのメール読むのがとりあえず手っ取り早そう。最悪モバイルギアで電子メールだけは読みたい。あとはローミングの方法を調べて、一応WWW関連を見る可能性を残しておく。GRICのアドレスをリンクしておこう。インターネットカフェはたくさんあるらしいけど、日本語表示ができるところがそうあるとも思えないしな。

19990724
▼父の古希で実家に帰る。枚方の住宅地を抜けると手品の布を返したように山間の田畑に出る。奥の坂を上がりきると牧場で、ロバがぞろぞろと上がってきて脅迫的な声でいななく。その農園兼料理屋で、もうええっちゅうくらい食べる。

19990723
▼「時は過ぎゆく」は読み始めると意外なほどさくさく読める。「田舎教師」よりもずっと読みやすい。ひとつにはすべてが過去形で語られているから。もうひとつには、親族の呼称を利用して、登場人物の視点を変化させているから。読者は適度なところまで来ると、呼称の変化によって視点の変化を得たことを知る。
▼たとえば、良太から見るときは、真弓は義理の甥だが、真弓から見ると義理の叔父だ。「良太」というかわりに「叔父」という呼称が使われれば、それは真弓の視点となる。また「真弓」というかわりに「甥」ということばを使えば、それは良太の視点になる。血縁者からの視点はどれも「た」で終結し、現在の語りから隔てられる。異なる時間における異なる視点から見たできごとを一続きに書き込むことで、「時は過ぎゆく」はまさにパノラマ館となっている。▼維新から大正期にかけてのできごとを常に終わってしまったものとして捉え続ける感傷の力。「時は過ぎゆく」には朝の連続TV小説のルーツを見ることもできる。

19990722
▼朝、人の読んでいる新聞に「江藤淳氏自」の文字が見えたような気がする。前日、「筑紫哲也飛び」という夕刊の見出しにはっとして確かめたら「東芝問題筑紫哲也に飛び火」だった。今朝もそうなのか。「江藤淳氏自殺」とあった。

▼新幹線が小田原を過ぎるあたりから空の色が俄然クリアになる。ここから先は梅雨が明けたらしい。

▼谷氏から平田由美氏の論文コピー。明治の文体研究。▼夕方、ゼミの飲み会。夜は冷房が止まり汗だくになる。後半は個別卒論相談状態。そうか、何をやればいいかわからないんだな。答えなんかやらないぞ。キミタチはもう二十二だ。夏は暑いだろう。夏はいくつある。夏は暇なんだろう。妻の後追いをした美しい最期だなんてコメントに、ああそうなんだと納得してる暇なんかないだろう。漱石と江藤淳を読め。ぼくはオランダに行くぞ。

19990721
▼国会図書館。借り出す巻数を間違えて午前中を棒に振る。午後はさくさく。しかし、いつもながら効率が悪いな、ここでの仕事は。コピーは3回までなのだが、マイクロフィッシュとフィルムは別枠なので、そこをうまく使うのがコツといえばコツ。

▼文学とハガキというメディアが結びついた例。そこに見える短小さへの志向。


須らく文章の形を限りて短小にし浮辞を除き緊密素朴を旨とすべきなり。本誌の葉書文学と称するは此義に外ならずして、採録する所の文の長さ、僅かに葉書面に記すに足るを要すといふ所以も茲に在す。故に本誌は葉書文学と称するも、必ずしも葉書の為に設けし機関たること、手紙雑誌の書牘に於けるが如きものにあらざること明らかなるべし。然れども一方に於ては全くハガキと因縁なきものにあらずして、却て大にハガキの装飾美観の為めに氣を吐かんとするものなり。(中略)思ふに葉書は日常応酬の具たるに過ざるも之を美化し趣味あるものとなさば、直接には受信者の慰籍たり、間接には人性を純粋にするに少補あらずんばあらず。
(明治三七年十月一日「ハガキ文学」一巻一号/発刊の辞)

▼ハガキ=携帯、文学=WWWってすりゃそのまま現代だな。

▼夕方土砂降り。5時で閉館した後も、ほとんどの人は帰らない。ぼくも雨が止むのを待つ。▼夜、新宿で、なのれー+三浦さんと飲む。豪勇といきたかったが、図書館疲れで早々と失礼する。

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