The Beach : July b 2001


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20010731

 山田風太郎死去。

 永谷園のそばめしを結構好んでいる。好んでいるのだが、固いそばをうっかり奥歯の奥の歯ぐきで噛んでしまい、以来歯ぐきがでかい口内炎のようになってなかなか治らない。奥のはぐきの露出した部分は口の中の辺境だと思っていたが、意外にも噛み砕いた食べ物が次々と送られてきてはまた前方に戻る循環場所になっていたことに気づく。




20010730

 十二階研究の先駆者、喜多川周之氏の文献を喜多川周之十二階関連文書にまとめておく。ここに挙げたほかにも絵葉書関連の文書や江戸凧の聞き書きなどいろいろあるのだが、とりあえずタイトルが十二階関連になっているものだけ。

 インターコミュニケーション原稿やっと書く。たった4枚なのに時間がかかった。

 林丈二「閑古堂絵葉書散歩」(小学館)は、絵葉書趣味・ミーツ・路上観察の楽しさ。なんでいままで気がつかなかったんだろ。絵葉書ファン必見。

 でかいモニタをずっと見つめてから、ノートパソコンの小さい画面に切り替えると、世界が遠のいていくような遠近感の狂い。

 the Beachの表紙の絵葉書は浅草観音入口。夏の打ち水を踏みたい人は、画像をクリックして拡大版をどうぞ。




20010729

 オープンキャンパス二日目。ばたばた。午前中だけで7組ほど進路相談。ユーザーの生の声を聞くのはおもしろい(詳細は省く)。
 親子で来ている人もけっこういて、家族で進路相談を受けてもらうことも。しかし、横の両親が食い入るように聞いていたりすると、本人の質問はどうも紋切り型になる。ほとんど面接状態。ここでの相談は入試には全然関係ないのだが。
 4時ごろには撤収。
 選挙。出口でアンケート用紙を持った人がするすると近づいてきて、相方が朝日の出口調査を受ける。出口調査員の人ってどういう基準で調査対象を選ぶんだろ。こわもてだと避けられるとか。質問は6、7項目で選択式。
 暑気払いに焼肉。
 あまりに暑いので頭に熱冷まシート貼る。あ、これけっこういいわ。

 自民党圧勝、小泉内閣を支持した人の半数が自民に投票、で投票率は戦後3番めの低さ。つまり、これだけ小泉内閣への「期待」度が喧伝されていながら、それはもともと投票に関心のある人の関心を移動させるにとどまり、投票に関心のない人の関心を呼び覚ましはしなかったということになる。年齢層別の投票率も気になるところだが、憂鬱な結果だ。景気が悪いにも関わらず、もはや投票行動という意思表示システム自体が破綻しつつある。




20010728

 オープンキャンパス初日。ばたばた。午後、進路相談。うちの専攻は心理学と社会学と生涯教育の三本柱なのだが、やはり臨床心理やカウンセリングに興味のある人が多い。
 心理学はうちの大学で勉強できるけど、臨床心理士の資格は大学卒業しただけじゃ取れない(指定大学院に行かないと取れない)。本で調べてきたのか、けっこう詳しい高校生もいれば、まるで知らない人もいる。手軽なものとしては「臨床心理士になるためには(ぺりかん社)」あたりか。しかし臨床心理=心理学というイメージってポピュラーなんだなーと改めて感じる。。




20010727

 高校訪問その2。県下の高校を回って自分のいる学科専攻を宣伝するのである。いわば営業である。県立大学もタイヘンなんである。県下、といっても1時間から2時間以上かかるところが多い。受験生もそれくらいかけて大学に来るのだからお互い様ではある。
 高校訪問は今年が初体験なんだけど、ユーザーの一人である高校の先生の声をダイレクトに聞くのは、いろいろおもしろい(詳細は省く)。一度体験しとくのは悪くない。もっともたくさん体験したくはないが。なんて言いつつ今年はあと2校ある。

 大学に戻ってオープンキャンパスの準備。オープンキャンパスの委員になっちまったので、仕方なくやるのである。写真が机の上にでんと置いてあるのが気に食わなくて、テグスを成田くんに買ってきてもらって吊ってしまう。掲示とかいろいろ準備してたら夜中。はうーん。




20010726

 遅れに遅れている原稿、短いのだがなかなか手につかない。暑さのせい、にしておこう。
 近くの文房具屋のレジに「あなたの夏休みの宿題を教えてください」という小学生向けの貼り紙。こまめなマーケティング・リサーチ。

 自宅でiBookの小さい画面で打っているとどうも閉塞感がある。奮発してI-O DATAの15インチの液晶モニタを買う。これにキーボードをくっつける。デスクトップの写真を夏の浅草に変える。石畳に打ち水。しばし呆然と見る。




20010725

 「ニュースの誕生」(東京大学社会情報研究所/ボイジャー・ジャパン)は、小野秀雄コレクションのかわら版・新聞錦絵をデータベース化した内容で、読み下し文とともに新聞錦絵の画像が閲覧できるほか、論考集や講談師による音声化の試みも含まれていておもしろい。

 明治の錦絵には、江戸期のものにはない毒々しい赤がしばしば使われていて、ぎょっとさせられる。これは明治期になって新しい赤の染料が出たことが原因のひとつなのだが、その隆盛について佐藤健二が興味深い指摘をしている。



 錦絵という複製文化自体が、一八世紀後半の新しい発明であり、それがベンヤミンのいう複製技術時代の情報空間の特質形成にとってもっていた意味は、基本的に大きいものであった。新聞錦絵の新染料の赤によって強調された強い枠取りは、内容として伝えられた血なまぐさい事件の「血」の赤と共鳴しながら、その色自体がひとつのメッセージであった。その色づかいのインパクトが、たとえば双六のようないわゆる「おもちゃ」の領域に引用されていくのも、おそらくはその新しさの知覚ゆえである。かつて柳田国男は、手鞠歌のような遊び歌には、すでに意味もたどれなくなった古い知識が声の形で保存されることがある一方で、存外に新しい見聞が面白さの力を求めて引用され、印象深い断片として織り混ぜられる事実を指摘している。

 佐藤健二「ニュースという物語」(「ニュースの誕生」)



 明治三十年代にパノラマ画家として名をなす五姓田芳柳が新聞錦絵に材をとった話。「臨場感」においてタイムリーさが持つ重要性を感じさせる。



 前年春の見世物では、油絵で芝居絵や役者絵を描いて見せることに終始した芳柳が、その直後に出回り始めた新聞錦絵に鞍替えしたのは、そもそも油絵の迫真性を訴えること、観客に臨場感を抱かせることを興行の目的としていたからだ。

 木下直之「小野秀雄コレクション再考」(「ニュースの誕生」)



 他に、永嶺重敏、前田愛の論考を引きながら、図書館や電車などの公共空間で「声」が締め出されていく過程をコンパクトに書いた森洋久の論考など。




20010724

 ここのところの「ちゅらさん」、誰もがいい人であらねばならないという強迫観念なのか、癖のありそうなキャラが次々とただの「いい人」に成り下がっていく展開にいささかゲンナリ。

 あまりにも暑いので帰るのも面倒。と思ったら、卒論生の中尾くんが「なんなら車で送りますけど」。気が利くじゃん。「そのかわり英語教えて下さい」。というわけで、茶店で心理学英語講座。idとかegoとかsuperegoとか教えつつ、なんかこのsuperegoの話ってモロ、フーコーの規範の内化の話だなー、などと考える。




20010723

 高校訪問で膳所へ。

 その後、京都に足を伸ばして三月書房。家の近くの書店に比べたら売り場面積は10分の1くらい。にもかかわらず買いたい本が山ほど。もちろん山ほど買う。ここは自分の本棚のような気がしている。居心地がいい。
 「浅草十二階」が置いてあるので嬉しい。いつだったか倉谷氏と「三月書房に置いてもらえるような本を書きたい」と話し合ったことがあったっけ。「日本風景論」「日本ランカイ屋列伝」に挟まれて置いてあった。いい配列だ。

 自分の本の売れ行きとか陳列のされ方を語るのは、あさましいことかもしれないけど、気になるものはしょうがない。実を言えば、近所の本屋に行くたびに、いつ入荷されるかと思って新刊コーナーをチェックするのだが、いっこうにその気配がない。もちろん何冊か注文すれば置いてもらえるようになるのはわかっているが、売り手のアンテナにいつ引っかかるかが知りたいので黙っている。本が売れる売れないという現象が、いかに局所的なものか、この店に行くとよくわかる。
 それにつけても、前も書いたけど、この、近所の「滋賀県下最大級」の本屋は広大なわりにどうも品揃えがおかしい。たぶん、立ち上げの際に何人かの専門家にリストを作ってもらって品揃えをして、そのあと放ってあるのだろう。ある時期の専門書が異様にふくらんでいて、アップデートが弱い。そして平罪コーナーには即効性のありそうな煽りタイトルの本がずらり。さながらDMだらけのメールボックスのよう。

 そして店頭にはもちろん例の「新しい歴史教科書」がおきまりのように平積みされているのだが、その横にあるのは「新しい教科書の絶版を勧告する」と「ここまでひどい!「つくる会」歴史・公民教科書」の二冊。タイトルに「教科書」って入ってないと売れへんのかい! そしてその横にはチーズ or バター、金持ち and 父さん、ハリー and ポッター、でタイトル検索かけたようなレイアウト。要するにどのコーナーも知識がすぐデッドエンドにつきあたって、読書空間がちっとも広がらない。空間は広いが、平積みの広がりが狭い。たとえば、「新しい教科書」vs「絶版」がらみなら、谷沢永一の「紙つぶて」とか山川の「世界史地図」とか、さらに芋づる式に「鴎外最大の悲劇」とか「恋愛の超克」とか「靖国」とか、そして「ここまでひどい」がらみなら、「構築主義とは何か」とか「歴史/修正主義」とか「敗戦後論」とか「ためらいの倫理学」とか、並べ方によっては、単なる教科書賛否から、歴史検証や歴史修正主義批判や歴史社会学の技法にいたるまで、本屋のレイアウトのレベルでいくらでも知識の広げ方をナヴィゲートしつつ売り上げを伸ばす方法はある、はずなのだ。

 ああ、あの本屋のことを考えただけでムカムカしてくるのに、なんでしょっちゅう行っちゃうんだろ。24時まで開いてるってのに弱すぎるんだな、自分。

 というわけで、頭は京都に戻る。十字屋三条店でフィッシュマンズ「記憶の増大」、ラヴェルの譜面(春秋社版)、西春によってご主人と一時間ほど話、ギャラリーそわかに寄ってビデオ納品。その後、アヴァンティFismy、ふたば書房京都駅店などによってさらに本を買う。もう普段の反動で見境もなく買う。




20010722

 明後日からの「Library展」(ギャラリーそわか)用にビデオ作品を作る。まずTV画面をマスクするためにケント紙に細工。これで画面を覆った後、これまで取りだめしてあったビデオを流す。これをさらにカメラ撮影して編集。デジタルカメラはよくも悪くも不要なテクスチャが映り過ぎるので、露出と照明をあれこれ試す。
 夜中になんとか完成。パソコンのない頃にはこういう作業が一日で完了するとは考えられなかったな。

 ってわけで、Library展は24日からギャラリーそわか(京都東寺東門上がる)で。ぼくは「
Kaleidophonex」というビデオを出品してます。




20010721

 夜中、自転車で朦朧と走っていたら、柱の影から突然子供の頭があらわれて驚く。よく見ると「飛び出しぼうや」だった。生まれて初めてだよ、飛び出しぼうやで驚いたの。ふつう、もっと遠くからわかるように置くもんだろうが。こんな電信柱ぎりぎりのところから頭だけ出すなんてリアル過ぎ。ちゅうか、これじゃ警告じゃなくて脅しだ。
 で、通り過ぎた後も、飛び出しぼうやをひき逃げてしまったような後味の悪さが残る。




20010720

 NHK@インパクでDJけろっぐの「ビデオ万華鏡」の話。30円(黒のケント紙代)でできる新しいテレビ観賞法。暑気払いにおすすめ。




20010719

 朝から統計学のテスト作り、夕方にはなんとか作り終えて本番。
 暑さのせいか、帰ると途端に眠くなる。




20010718

 国会図書館へ・・・と酷暑の中、国会議事堂前を抜けて交差点を渡ろうとすると、「休館日」の札。がーん。
 ショックをやわらげるべく、恵比寿の東京都写真美術館へ。森山さんとお茶して「桑原甲子雄 ライカと東京」展を見る。写真に映っている影はフォトグラムのようで、すでにフォトグラムが撮られている事物をさらに写真に撮るという冗長性を感じさせる。薬屋の文字の繰り返し。余白、といえば余白なのだが、何も無い余白ともちがう。冗長という、機能の余白。

 ショップで「組み立てフォトモ」(森田信吾・糸崎公朗/雄鶏社)買って新幹線で読みながら(見ながら)頭の中で組み立てる。これ、「散歩の達人」に載ってて好きだったんだよなー。写真コラージュってのはいろいろあるけど、ここまで一枚一枚の縮尺がダイナミックにかわるのってすごい。




20010717

 夕方から新幹線。神保町をちょっとだけ。そのあと東京駅で宮田さんと橋爪さんと待ち合わせておでんを食いに行く。途中から須川さんも合流し円谷作品の濃い話。
 新宿常宿に戻り、近くのまんが喫茶で「最終兵器彼女」一気読み。

 
7月13日に、集合論の順序数や対角線論法のことを日記で考えてみた。これらの話は、大学の初年度で習ったことだし、その後も何度か本で見かけたことがあるのだけれど、読むたびに頭が何かに抵抗する感じがする。なにに抵抗しているのか知りたくて日記にたとえてみて、少しその理由がわかったような気がするので書き留めておく。

 これまで、集合論の違和感は「集合の集合」から来るのではないのかと感じていた。でも、どうもそうではない。たとえば、一日のできごとを日記に書き留めるという行為じたい、あるいは数え上げるという行為じたいを日記として扱うことにはさほど違和感は感じない。
 むしろ違和感は、数え上げという行為の長さの長短が無視されるところからやってくる。
 たとえば、日記に「何もなかった。」と書くことと、「何もなかった。一日目も何もなかった。二日目も何もなかった・・・一万日目も何もなかった。」と書くことでは、書く時間の長さ、数え上げの長さは圧倒的に違うはずだ。そして、前者の日記(という集合)が「一日目」、後者の日記(という集合)が「一万一日目」と順序づけられる根拠は、この書く時間の長さ、数え上げの長さの差から来るように感じられる。
 じっさいのところ、一万日分の日記を読むことはそれだけで一日を費やしても足りない作業だ。この気の遠くなるような作業を、一日目と同じように「一万一日目」という数字で表わすことで、1と10001は、同じ「順序数」として扱える。
 しかし順序数は数え上げという行為を通して考察される。この数え上げの時間がぼくの頭にまだ残っていて、それが順序数を納得することに抵抗している。この数え上げの時間を忘れてしまっては、集合論はわからないのではないか、という不安が、集合論を理解することを妨げている。
 「数え上げ」に依りながら、「数え上げ」の時間の残滓を振り切ること、その残念を「数字」に託すことが、集合論の理解には必要なのではないか。




20010716

 夏バテ気味。実習、最後だからサクっと終わろうと思ったのだが、一人一人の持ってくるレポートに直にコメントしていたら結局いつもより長くなってしまった。





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