The Beach : May a 2002


| 携帯 | 月別 |


20020515

 以前に、うらやましいと書いたUSA発売のガンビーボックスだが、なんとサウンドトラックがオリジナルじゃなくシンセという情報がamazon.comに多数。


 リュミエールを見直しながらパノラマについて考え直す。リュミエール社のフィルムには車窓の風景が多く、それらはたいていタイトルに「パノラマ」という語が含まれる。当時のムービングパノラマ(複数の層の絵巻き物を異なる速度で動かすパノラマ)を考えれば、これらに「パノラマ」の語が当てられるのもおかしくはない。

 問題は「ベルヴューのケーブル鉄道のパノラマ」だ。このフィルムは、他の「パノラマ」フィルムと移動の方向が異なる。そこでは、下降するケーブル前面から見た光景が映されている。
 このような光景に対して「パノラマ」という語が使われることを、どう考えたらよいか。
 まず、ムービングパノラマとの類似はここでは使えない。横移動ではないからだ。
 では、高みから見た光景をパノラマと呼んでいるのか。その可能性はある。が、下降という移動撮影は、高みから低みへの移動である。もし高みからの光景のみがパノラマであるなら、下降とは、パノラマからパノラマでないものへの移動である。しかし、この映像は、単にクライマックスが失われていくフィルムではない。むしろ地上が近づきながら、風景が奥行きを増し、豊かになっている。

 横方向の広がり=パノラマ、あるいは高み=パノラマ、という考えでは、「ベルヴューのケーブル鉄道のパノラマ」という語は理解されない。前面の奥行きが移動によって強調されていく現象としてのパノラマ、つまり「パースペクティブ=パノラマ」を考えなければ、パノラマという語は解けない。
 逆に、「パースペクティブ=パノラマ」と考えれば、車窓からの風景(もしくはムービング・パノラマ)も、ステレオ写真も、ケーブル鉄道の風景も、エッフェル塔の上昇も、すべて「パノラマ」という語の中に収まる。

 パノラマという現象は、なによりもまずパースペクティブであり、視界をパースペクティブで覆う装置として横長、もしくは360度画面が必要となった。現代用語としての「パノラマ」ではこれが逆転して、まず横長や360度が「パノラマ」の必要条件となっている。




20020514

 会議、ゼミ、教官懇親会など。新しく来た先生はヴェネチア大学にいたという。ヴェネチア職人と産業をリンクする話。

 ゼミで会話分析の練習用に、その場でワイドショーを見て適当に会話を切り取ってみる。いつもぼんやり見ているTV番組のほんの十数秒の中にもターンをめぐる複雑な規則が隠れていることの例示。




20020513

 まっとうに実習。シロツメグサの解剖とイヤークリーニング。4、5時限めということで、そろそろ疲れてくる時期なのか居眠り学生ちらほら。どうにも原稿が進まない。本当に困った(先方はもっと困っているだろう)。逃避するように文献を読む。これをネガティブ三角食べと呼ぶ。嫌いなものを避けるように別の嫌いなものを食べるうちに全部たいらげるという戦略。




20020512

 中国の日本大使館事件。まず、これを撮影したのが韓国のテレビ局で、しかも事件前から撮影が行われているという点が注意をひく。つまり、これは告発ビデオなんだけど、その告発は韓国メディアによってなされたという点は、今後の事件の解釈に影響するように思う。

 もうひとつ。なんか中国の警察が日本大使館の領域内に入ったということがもっぱら問題になっているけど、むしろ問題は、日本という国家およびその出先機関である日本大使館に、亡命者を受け入れるという概念がハナからないことではないのだろうか。

 京都でペヨトル工房解散イベント。5時過ぎにいったらもう藤本さんのは終わっていて、ご本人が表に立っていた。少し立ち話。本をめくる音をコンタクトマイクで拾って爆音化したらしい。
 表のテントのところにミルキィ・イソベさんがいたのでひさしぶりに話。
 おっと、本番をほとんど見ていないではないか。森村ユニット、天井から下がる身体美し。野村くんのユニットは、すれすれで爽快に穴を開けられる気分。あのフライパンピンポンはすごいな。
 笠井叡の踊りつづける体力。ときどき踊りながら思わず何か言ってるのが、あたかもつぶやきながら演奏するグールド。
 田中みんは来なかった。が、来たとしても終電に間に合ったかどうか。




20020511

 大学で藤森照信氏の講演。ここ10年ほど氏がかかわっている、植物を生やした家について。
 木を割る話。ちょうど木挽きの本を読んだばかりだったので、興味倍増。表面をでこぼこにする技術。曲面かんな。
 屋根に芝が植わっている芝棟というのはフランスにもあるらしい。
 赤瀬川邱(ニラハウス)の屋根について「どうしてニラなんですか?」という問いに対して、「建築に生える植物はうぶ毛みたいなイメージなんです」という答え。風を触知する家。

 MUDでのやりとりを詳細に論じたLynn Cherny「Conversation and community」を読む。




20020510

 文献読んだり原稿書いたり。

 林以一、かくまつとむ「木を読む 江戸木挽き、感嘆の技」(小学館文庫)は無類のおもしろさ。

 じつは「おがくず」が「大鋸(おが)」のくずだということすら知らなかったのだが、こうした豆知識に対する驚きはほんのトバ口、木を割ることから切ることによって木の流通がどう変化し、材となる木がいかに多様になったか、はたまた「大鋸くず」を効率よく掃き出すために道具はどのように進化し(たとえば「ちょんがけ」)、どのようなメンテナンス(「目立て」)が必要か、一本の木にどのような材の可能性を見抜くか(「木取り」)、さらに、そうした知恵によって、建築の見方、世界の見方はどう変わるかという、めくるめく内容。

 木だけでなく、世界に対しても「木取り」があるということが、この本を読むとわかってしまう。林さんのことばと身体で体系づけられた知恵を、文章と図で表現していくかくまつとむ氏の力量も尋常ではない。




20020509

 毎年、前期に講義が集中するのでだんだん疲れが出てくる。今年は後期にあるはずの講義を前期に回したので、ゼミを入れると週平均10コマ。アニメーションゼミを自分で開いたのでさらにしんどくなった。木曜が終わるとぐったり。金曜に講義がないのがせめてもの救い。

 しんどくはあるが、やってみるとアニメーションゼミはあれこれ発見がある。これまでアニメーションのビデオだのDVDをずいぶん買いあさったが、年代順に入手したわけではないので、時系列でアニメーションを考えるということがあまりなかった。

 でも、時間順に並べてみるといろいろわかることがある。たとえば、フライシャーの「Chemical KOKO」で、前半に長々と実写のトリック映像が出てくるのだが、これはメリエス風だなとか、そこからKOKOが手書きで描かれるのはマッケイ風だとかいうこと。そして、それらの「○○風」は、いかに動かないはずのものを劇的にanimateさせるかという、基本文法として生き残ってきたのだということ。

 「動かないはずのものが動く」という驚きがわからないと、昔のアニメーションの驚きはわからない。わたしたちは、あまりにアニメーションが動くことを当たり前だと思っているので、いまいちど、「動かないはずのもの」を発見する必要がある。その点で、リュミエール、メリエス、ブラクトンからこのゼミを始めたのは正解だった。

 もうひとつ、改めて痛感したこと。
 実写とアニメーションの合成というのは、じつはブラクトンに始まって、アニメーションの最初期から試みられているばかりか、むしろアニメーション初期において全盛だった。マッケイがネモをペンで描いて見せるのもそうだし、ディズニーのアリスシリーズもそうだ。これまた、「動かないはずのもの」が動くことへの驚きの演出と思われる。
 トムとジェリーが「錨を上げて」などで実写に入り込むのは、じつはとてもオールド・ファッションなやり方なのだ。


 変換形式に関するメモ。たとえばロトスコープ。初期のアニメーションでは、描画キャラクタは不定形から(たとえばインクの一滴から)変形したが、現実の人間は不定形にはならなかった。現実の人間は、ロトスコープによって輪郭が転写されることで描画世界に入り込んだ。アニメーションは線の論理によってanimateされる世界だったから、現実の人間がアニメーション世界と交換可能になるにはいったん線にならなければならなかった。

 実写と描画の合成じたいはアニメーションの初期から存在した。現在のCG合成は、実写と描画を融合したことにその特徴があるのではなく、その変換形式(モーフ)に特徴がある。

 CGのモーフィングが現実と描画の関係に何をもたらしたか。まず、CGによって、線でも面でもなく、「立体」(テクスチャ)の論理で描くことが加速した。それは、現実と描画を「立体」の最短距離で交換する(モーフィングする)という発見をもたらした。
 (こうしたモーフィングへのアンチテーゼとして「となりの山田くん」を挙げることができるだろう)

 今日はフライシャーをざっと見るにあたって、「あきれたぼういず」の曲をいくつか流した。あきれたぼういずは、単に坊屋三郎がポパイのまねをするということだけでなく、全体の形式(ドタバタミュージカル)がじつにフライシャー的だったということがわかった。




20020508

 講義講義ゼミ。Streekの視線とジェスチャーの関係に関する論文。自分のジェスチャーに視線を向けてから相手に視線を向ける。そのことでジェスチャーをillustrateする。

 ここで、ジェスチャーを見るということがポイントなのではなく、ジェスチャーを見て相手を見るという、視線の連鎖がポイント。

 いわば発し手の視線はモンタージュ形式をとる。繰り返すが、おもしろいことにモンタージュ形式をとっているのは、ジェスチャーの受け手ではなくジェスチャーの発し手なのだ。受け手は、発し手の視線移動を見ることで(あるいはミラーニューロンが発火することで)、そのジェスチャーがillustrateされた行為であることを知る。

 夜、仮眠してまた原稿。しかしまだ終わりが。




20020507

 リポD飲んで原稿書き。しかし終わりはまだ。




20020506

 DVDのロシアアニメーションシリーズ。ノルシュテイン関係を見て、心洗われる思い。




20020505

 浅草十二階計画に「十二階下の鳥瞰図(千束二丁目)」を追加。

 アート・シュピーゲルが「Krazy Kat」を評して「Brickism!」と書いている。日本語にすると「煉瓦主義」いいフレーズだ。浅草十二階の次の本のタイトルはこれだな。

 今日も検索。仁丹の広告を大正元年から4年分見たらどっと疲れた。とりあえずいろいろわかる。大正三年がいわば広告変革の年で、金言シリーズや「○○に仁丹」(毎回イラストを変える広告シリーズ)、義援広告などが登場したこと。いきなり新年から仁丹塔を仰いでいること。大正博覧会の広告にも上野仁丹塔が登場していること、などなど。

 太陽閣、私娼問題、災害絵はがき、昇降機についても、いくつか知見があった。そのうちまとめよう。とにかく一日でいろんなことが分かり過ぎるので、少し消化する時間が必要。

 頭を休めるべく本屋で田中優子「江戸の恋」。他人に開かれた恋。出会い系サイトの「系」の字がイヤ、という話。そういえば、恋のダンス系サイト、とは言わなかったな。系がつくかどうかの違いってなんだろう。帰属か存在か。太陽系と太陽。




20020504

 浅草十二階計画に「万国実体写真協会「浅草公園」(明治三十七、八年ごろ)」を追加。

 浅草で買ったオクノ修「こんにちわマーチンさん」を繰り返し聴く。

 今日もサルのように読売新聞CD−ROM検索。いくつか気になったものをメモ。

 「ハテナ写真」(大正元年 1912, 9.6)。新しい写真、というタイトル記事。一時間でできる「実景の如きハテナ写真」。その実体はどうやら今でいうトリック写真らしい。人物が脛まで水に没しているように見せたり泳いでいるように見せるもの。ここで紹介されているのは二種類。
 ひとつは、拝啓の前に人物を立たせ、その前に五分抜きに水を書いた前景を置く。そこには歌舞のわずかな部分に水が書いてあって、上部のほうは磨りガラスというもの。
 もうひとつは種板に仕掛けのあるもの。種板の下半分を覆って人物を撮影し、次に(セットを移動して?)下部を撮影する。

 「マグネシアに就て」(大正元年 1912, 9.5)。御大葬写真の夜間撮影にマグネシウムを使うと「恐ろしい爆音を発するから静粛に静粛を主とする場合」いかに爆音をなくするかが問題となっていた。このため、明治天皇崩御のあと、さかんに各地で実験が行われた。ところが、9/3に芝浦埋立地で森戸写真館が実験していたところ、突然マグネシムが爆発、死傷者が出て問題となった。
 ちなみに、御大葬の写真は結局、小川一眞をはじめとする四人が12ダースの種板を用いて撮影した。このときに写真師どうしで何かトラブルがあったらしく、一眞は後で写真師組合を除名になっている。

 大正三年五月連載「オモチャ画報」オモチャの挿絵と値段が書かれている。活動写真機も載っているが15円とえらく高い。




20020503

 浅草十二階計画に「十二階から十分二銭の双眼鏡で長澤中尉の雄姿を望む」を追加。読売新聞CD−ROMのご利益。

 児子さんから山宮さんのビデオ。予想と全く違う内容でとても気に入った。マイナスワンとプラスワンの間を揺れるブランコ。絶妙なヨーヨー。謎には適切な色と形と大きさがある。

 国立近代美術館の「未完の世紀」のカタログを読み直していて絵はがきネタに気づいたので書き留めておこう。コラムによれば、古賀春江の「海」の右端にいる右手を高々と掲げる女性、そのモデルは「原色写真新刊西洋美人スタイル第九集」という絵葉書にあったという。




20020502

 一回生向けの入門講義で、昔作ったスタックをがーっと見せる。白黒で作ったものって今見るとイノセントだな。カラーは色欲が出過ぎる。

 amazonで注文した"Krazy Kat the comic art of George Herriman"が届く。ネコとネズミとイヌとアリゾナ沙漠。ホームレスのトム&ジェリー。スピードレスのロードランナー。
 もう一冊のKrazy Kat 1925-26は表紙がクリス・ウェア。そういえば彼のクインビー・ザ・マウスは、さながらIgnatz without Krazy Kat。




20020501

 体調スコブル悪し。ビタミン剤がーっと飲んで野菜山ほど食べる。例によって講義講義ゼミ。





to the Beach contents