The Beach : Nov. b 2003


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20031130

 寝不足の頭を叩きつつ神田に出て、月刊言語のバックナンバー「テンスとアスペクト」特集を買って喫茶店で読む。テンスとアスペクトといった概念はすっかり確立されたものだと思っていたが、じつはけっこう論者によって差があることを知る。

 テンスとは視点 viewpoint を扱う概念であり、アスペクトは表現されるできごとが(物語内)で語られているか(物語外)で語られているかを扱う概念である、と考えてみると、空間思考 と時間思考を総合的に扱えそうな気がする。つまり、物語内、という感覚は、時間思考では「継続相」という相をとり、空間思考では「キャラクタヴューポイン ト(もしくはViewer space)をとる。かたや物語外では、時間思考では「完成相」という相をとり、空間思考では「オブザーバーヴューポイント(もしくは Diagramatic space)をとる。

 渋谷ユーロスペースでドライヤー「奇跡」。画面の大きさと席の位置の関係があまりに理想的な視点に近く、冷や汗が出た。


20031129

 部屋にあるものをあたふたとパッキングして東京へ。代々木オフサイトで「服部フェスティバル」。第一部は盛りだくさん。中尾さんのSPコレクショ ン披露に中学生時代のテープ披露、江崎朗読(ムツゴロウと象の話。コミュニケーション論に使いたい深さ)とビデオ、宇波君と泉君の高校大学時代のテープ披露、私の歌とエレベータ談義など、あまりに多様な内容を、 ミュージシャンに指示を出すエイドリアン・シャーウッドのごとく、宇波くんが仕切っていく。
 第二部は中尾さんの多重録音、私の絵葉書光学、中尾さんの8ミリフィルム上映の三本立てで、こちらはわりとすっきりとした構成になった。それにしても、どんなジャンルであれ、中尾さんのやっていることは身の丈にあっていながらただならぬ深さである。

 近くの居酒屋で打ち上げ。途中までは和気あいあいと話していたが、部屋にあったカラオケセットで泉くんがガンズを歌い出したのをきっかけに、オリ ジナルを再現するのではなく、オリジナルがどう聞こえるかを再現しあうというまがまがしいカラオケ大会となり、終電はとうに過ぎ、午前4時、さらに向かい のカラオケ屋に移動し、カラオケのボリュームをオフにして、歌詞のみを手がかりに勝手な歌をでっちあげあう。始発でホテルに戻る。


20031128

 金曜ゼミ。雑談は迷走し、途中から、フリーター増加の果てに現われるであろう、琵琶湖岸徘徊老人通りというビジョンについて話す。


20031127

 東京芸術大学美術館「工芸の時代」。鈴木長吉の「十二の鷹」は圧倒的だった。羽毛一枚一枚に丹念にほどこされた毛筋もさることながら、全体のフォ ルム、盛り上がった肩が角を作って羽毛へと落ちていく量感や、腹の羽毛のわずかなふくらみから現われる爪の迫力。 江戸期に甲冑師の余技から生まれた自在龍や自在手長海老の精緻さ。実用を徹底的に追及することから生まれた機動性が、置物へと凝り、「何をそこまで」な作 品を生んだ。江戸末期の過剰な精緻さを再認しながら、明治期の工芸家は内国や外国の博覧会に作品を出品していった。そして、そうした精緻さは、ジャポネス クを生むだけの確かな迫力を備えていた。ジャポネスクということを考えるとき、ぼくはついついそのまがいもの性にのみ注目してきたのだが、まがいものを生 むだけの強い力が、江戸期の工芸にあったことを押さえて置く必要がある。浮世絵のみならず、開国によって流出した日本のさまざまな工芸品は、諸外国にとっ てとんでもないできごとだったのだ。そして、少なくとも岡倉天心は、そういう工芸品の力を、外国からまなざすことで再発見したのだろう。

 旧美術学校では、「手板」による教育が行なわれた。教師が造りあげた手本がコンパクトな一枚の板になっており、それをもとに、決まった手順を踏みなが ら、漆を塗り、金を蒔き、螺鈿をこすっていく。この手板が、じつにほどよい大きさで、大作とは別のアウラを放っていた。とくに加藤夏雄の鋭い鑿の線。

  新幹線で京都へ。Book Offで小澤勲「痴呆を生きるということ」(岩波新書)。いくつか気になるところを引用しておく。

 痴呆を病む人は経験したことの内容を忘れるだけでなく、経験したこと自体を忘れる。

  I miss you といえば、あなたを喪い、あなたに会えなくなって寂しい、という意味だが、When did you miss your umbrella? といえば、いつ傘がなくなったことに気づいたのか、という意味になる。つまり、「・・・・・・がなくなって淋しい」という気分が「・・・・・・がなくなっ た事実に気づく」ことにもなるのである。そして、寄る辺のなさと寂寥の「こころ」が「もの」盗られ妄想として表現されるのである。

 たとえば、自分が大切にしていたものがなくなったとする。客観的にみれば、だれかが盗っていったのかもしれ ないが、自分が置き忘れた可能性もある。あるいは、たまたま何かに紛れて移動してしまっただけなのかもしれない。ひょっとすると、すでにずっと前からなく なっていたのかもしれない。だが、このようないくつかの可能性を思い描き、検討する能力は彼らに残されていない。  あるいは、これらの可能性がこころに浮かんだとしても、それらを現実的に検証することはできないのだから、彼らにとって等価である。しかも、事態を自己 の責任において処理する能力はすでに失われている。とすれば、責任は他に投影され、結果的に妄想という構造を獲得するのは必然である。すでに述べたよう に、その方が自分が担わねばならない負荷が軽減されるからである。
(小澤勲「痴呆を生きるということ」)

 松島さんと京阪三条で待ちあわせて飲みながら忘却話。
 そこで出た放談的アイディアをメモ。
 痴呆の人は、因果関係を考えるのが苦手であるいっぽう、いやな感じとか幸福な感じという感情はある程度もっていて、そういう感情がさまざまな行動のきっかけになっている。そういえば夢もそんなところがある。夢は痴呆に似て感情がメインなのではないか。
 パワーポイントを使うとレジュメを使うのにくらべて前のスライドに対する意識が希薄になる、あれはプレゼン装置というよりむしろ忘却の装置なのではないか。
 この世には始まりを遡っていく思考と終わりを引き寄せる思考がある。たとえば茶の湯について語るとき、「じつは玄関を入るところから茶の湯は始まってい る」「家を出るところから始まっている」「花入れに投げ込む花をとってくるところから始まっている」という風にいくらでもその始まりをたずねることができ る。これの対極として、ひところよくいわれた「終わってるよね」という物言いがある。
 「忘れていた」という発語は、過去に向かって想起が走るスピードに、未来において追いつく。
 「傘は?」とたずねられて「あ、忘れていた」といいながら手を叩くことはできるが「あ、忘れた」といいながら手を叩くのは不自然である。手を叩くことは 手を広げることから始まっている。手を広げるという準備と「あ、忘れていた」は両立するが、手を広げる準備と「あ、忘れた」は両立しない。


20031126

 東大の西田・黒橋研で発表。記憶の相互作用の話と参照枠一貫性の話。

 発表を終えて夜まで少し間があるので、東大の図書館でやっている「博覧会から見えるもの」展示。絵入りロンドンニュースを中心とした雑誌資料が多かったが、東京芸術大の美術館に鈴木長吉の鷹が飾ってあるのを知ったのは収穫だった。明日行ってみよう。

 散歩がてら歩いて秋葉原まで。iPodを買う。貯蔵記憶装置として見ると、同じ容量のHDと比べて3倍と割高なのだが、円形のトラックパッドが気に入ったのと、ちまちま曲を選ばずにぽんとアルバムごと放り込めるプレイヤーが欲しくなったので。

  夜、院生の人たちと飲み会。「など」とか「とか」ということばはどういう機能をもつかという話。「など」は上位クラスを思いつけなくて列挙中という状態な のではないかという岡本さんの意見。たとえば、ビールなど、というときはまだ「飲み物」という上位クラスは思いつかれていない。逆に「飲み物」という上位 クラスが決定すると、「ビールなど」と言っていた時点ではあいまいだった要素や、想定外だった要素が下位クラスとして明らかになる。しかしおそらくそれで 終わりなのではなく、「飲み物」という上位クラスを危うくするような境界要素があらわれ、クラスは底から揺らされる。
 となると、「など」というのは、単にあいまいな表現であるだけでなく、下位クラスから上位クラスを生み出す力となっているのではないか。
 「ビールなど」といってから1時間か1年後か、あるいはもっとあとに未知の飲み物を飲みながら「あのとき『など』といっていたものの中にはこれも入って いたのか!」と思い当たる瞬間があるかもしれぬ。このような瞬間を「Now is the time (今がその時)」ならぬ「Now is the NADO(今がその『など』)」と名づけておこう(名づけてどうする)。
 おじさんはなぜ話が(カテゴリが)大きくなるかという話。おじさんのカテゴリは、じつは「○○など」と表わされる下位カテゴリを上位カテゴリの名で呼んでいるのに過ぎないのではないか。
 この世は少年とおばさんに分かれる、という問題発言。ならば「わたしが少年になっても」「おばさん時代」「硝子のおばさん」といった歌が生まれるべきである。
などなどと楽しい話をして過ごす。

 新宿に出て宇波くんと待ちあわせ、東村山まで。 宇波邸で以前からうなちん絶賛の中尾さんの車窓ビデオ(ニセコ編)。いや、これはほんとにいい。デレク・ジャーマンを越え、ジョナス・メカスのように途方 もない。しかも、中尾さんはとくに上映会をするでもなく、プライヴェートにこういうのを何本もとっているのだという。29日の上映が楽しみ。 かえるさんの新曲を練習する。いつも自分のへたくそなギターで弾き語りしているのだが、宇波くんのギターで唄うとわれながらいい曲である。でたらめに作っ たつもりだった「海と毒薬」にさえカントリー叙情が漂う。


20031125

 会議会議。


20031124

 彦根駅伝を走る人の合間を縫って大学へ。休みではあるが四回生ゼミ。数を表象するジェスチャーについてあれこれ考える。2とか3のように、決まっ た数を唱えるとき、たいていの人は指の本数でその数を表象する。いっぽう、「たくさん」とか「毎日」というふうに多数を表すジェスチャーでは、手が同じ動 作を繰り返し、同じ空間が何度も手によって掃かれる。
 多数を表すときに、最初の数回が手によって掃かれることが必要なのに対し、決まった数を唱えるときはいきなり記号で表してよい。あたかもベルクソンの言 う「意識事実の多様性」と「物質的対象の多様性」のように。

 というより、指二本とか三本の記号で表しうる程度のことは、「物質的対象の多様性」未満の、むしろ「物質的対象の単一性」ともいうべき事態なのだ ろう。「物質的対象の多様性」というときは、ある種のおびただしさが必要である。電線を伝うツタの繁茂(「11人いる!」) やオオアレチノギクや箱いっぱいのパチンコ玉に対して最初に感じる「おびただしさ」。これらが記号で表わされてしまうと、そこには、単一のできごとがぽつんとあるばかりだ。

 ジェスチャーはその性格上、時間を空間に延べる。 

 通過された空間と空間を通過する行為、継起的諸位置とそれらの総合とを区別しなければならない。

 国立文楽劇場へ。今日は「平家女護島」「鑓の権三」「傘物狂いの段」の三本立て。
 「平家女護島」は俊寛の話。人形の大きさはかわらないのに、道 具立てでぐっと見た目の大きさがかわる。最初は水平線の手前にぽつりと俊寛を配置し、次に横から途方もない大きさの舟を登場させることで、俊寛たちの卑小 さを表わし、群衆劇によってヒューマンサイズに移行させる。最後は岩にのぼらせ、観客はそれを見上げることで俊寛の大きさを実感する。それにし ても、岩を90度回転させて、観客席を海にしてしまうのにはうなった。
 「鑓の権三」。女の業がものすごく、無自覚に相手をハメていくその過程はおもわず額の汗をぬぐいたくなるほど。帯にかじりつくとはなあ。昼のソープオペラにしてもいけそうな内容。


20031123

 朝から推薦入試。試験に面接をどんどんこなす。

 志望者の多くは、こちらが「志望動機」とか「高校で印象に残ったこと」を聞いたとたん、あたかもカラオケの番号が呼び出されるがごとく「貴学のカ リキュラムにある○○ということばに引かれて」とか「クラブ活動でみんながひとつになって」とつるつると口にする。いわば「面接指導アーマー」をがっちり 着込んでいるのである。
 どうも面接という場は、志望者と面接員の対話の場ではなく、志望者による防御の場としてとらえられているらしい。面接指導で鍛え抜かれたアーマーによっ て、眼光鋭い面接員の攻撃をはね返し高得点をたたき出す、という面接観がはびこっているらしいのだ。その結果、学校も個性も違う、ひとりひとりがオンリー ワンであるはずの志望者たちから、同じような体験談を繰り返し聞かされるという奇妙なことが起こる。

 攻撃と防御という関係からは、まっとうな対話は生まれようはない。面接が一回終わるたび、面接員からはふーっとため息がもれる。話をしているだけ でこんなに疲れるわけはない。暗誦大会につきあわされていることに疲れてしまうのである。

 そこで面接員中やや年下である私の役回りは、「アーマーはずし」ということになる。アーマーはずしといっても、やることは簡単で、志望者のつるつ るした想定回答を支えている世界について尋ねるだけのことだ。

 想定問答集というのは、想定される攻撃に対する防御だけでできた世界である。ところが人間のことばとからだというのはおもしろいもので、想定され た世界だけで閉じていることができない。どんなに完璧に防御したつもりでも、防御に使われることばやからだの動きじたいが、相手に世界のほころびをもらし てしまう。そのほころびに話が及んだとたんに、アーマーはぴきーんとはずれる。多くの人は「アーマーはずし」をすると、ほっとしたように口調がナチュラル になる。防御をあきらめて生身の体験を参照しながら話すようになれば、その人には「みんながひとつ」では済まない我欲も困惑もあることが明らかになってく る。そこからがようやく面接の本番ということになる。

 面倒なのは、いっかなアーマーを脱ごうとしない人で、こちらがいくら問いを投げかけても、問われたこととは関係のない答えしか返さない。問いに答 えるよりも、用意したセリフを唱えるほうがよいと思っているらしい。そういうときは、多少ことばにつまってもその場で答えを考えるほうがトクだと思うんだ けどなあ。

 その場で思いついたことをいうとボロが出るから損ではないかという意見がでてきそうだが、こちらはそのボロから話を始めたい。その人の思想信条や 生活態度の是非を判定したいからではない。まともに対話する力、相手と話しながら自分の欲や困惑に気づくことのできる力を見たいと思っている。
 だいたいキミタチは面接にくるのにあらかじめ想定問答集を練習してくるていどのずるさを持ち合わせているんでしょう。そんな人が、想定問答集にあるよう なつるつるのきれいごとを信じていることじたい、おかしいと思わない?

20031122

 名古屋から東京へ移動。やけに駅が混んでいると思ってから気づいたが、世間は連休なのだな。ひかりは混み合ってそうなので、こだまでゆるゆると東 京へ。神田であれこれ買う。

 学術情報センターで身振り研究会。関根さんの、保育園児と小学生のデータ。ジェスチャー抑制/自由条件の比較の話も興味深かったが、滑り台を表象 するこどもの動作がやたらおもしろい。階段をのぼって一気に滑り降りるというのは、子供にとってとても身体的なできごとなのだろう。子供によっては、自分 の両足を前に伸ばして、手をすーっと前に出しながら滑り落ちる様子をジェスチャーで表わす。その手が前のほうでぐーっと上方に上がる。そういえば、滑り台 を勢いよく滑るときというのは、単にすべり落ちるだけでなく、台がつきたところでわずかに「ふわっと浮く感じ」がある。そういう体感を、わずか4歳くらい の子供がジェスチャーで言い当てて(やりあてて)しまう。

 あとで、大神さんからfMRI実験のインフォームド・コンセントを受ける。来年、fMRIを初体験するのである。歯列矯正用の金属ブリッジがダメ と書いてある。要するに、金属でワッカになったものが体内にあると、そこを磁力がもうええっちゅうくらい回って「どんどん熱くなる」らしい。そういう話を 聞いていると、なぜか自分の体内にもそんなワッカがあるような気がしてくる。
 どうも、ある種の感覚的なことばには、「ないはずのフシが思い当たる」という機能があるらしい。

 しばらく飲み会で話してからそそくさと彦根へ。

20031121

 ゼミ二本。夕方、名古屋へ。鶴舞のDAY TRIPで、"Electronic Discussion"。
 Yuko Nexus6は「エレクトロニック」ではあるが、じつはパソコンを使わず、エレキギターと音叉によるパフォーマンス。音叉で倍音を鳴らすというのは珍し い。
 佐近田さんのパフォーマンスを見るのは久しぶり。前半はナルシストの散歩、後半は公園の手品師というアヤシイ印象。ビデオ映像に写ったマフラーの色で音 楽を奏でるというもの。
  三輪さんの「またりさま」は、まず、"Salt", "鈴","掛"などと書かれたMAXのオブジェクトを配置していくところから始まった。"Salt"などはあきらかに音とは無関係な(おそらく名前のみ の)オブジェクトなのだが、それをあえて配置するところが妙。どうやらオブジェクトを配置してコードでつなぐこと自体が儀式になっているらしい。後半は、 八人がムカデの輪のようになり、前にいる者の背中を鈴と掛で叩いていく儀式。
 カールさんのは、4 piecesのころより、もっとそれぞれの音の粒がはっきりしたもので、フラグメントとは別のレイヤーを作っていた。ビザール・カフェみたいな感じ。

 終わってから向かいの飲み屋でごついお好み焼きを食ううちに「掛ける」とは何かという話になり、そもそも乗算を表わすことばとトッピングを表わす ことばとフックを表わすことばが同じ和語で読まれることの意味はなんであろうか、たとえばこのサラダにかけられたとろろのように、と言っていると、その食 いかけの山かけサラダを店員が引き上げてしまったのであっけにとられる。
 「掛ける」ということばは、おそらくなんらかの接続感と関係があるのだが、それはなにやら永続的なものではなく、一過性のものであるような気がする。水 をかける/水がかかるというのは、水の流れや降雨のごく一部がなにものかにかかったという感じである。ふりかけも手元のものをすべて浴びせるのではなく、 ぱらぱらと一部を巻く感じである。「なになにとかけてなになにととく」というが、あれはそもそもどういう所作から来たことばなのだろうか。

 そのあとも、三輪さんと「またりさま」についてあれこれ話す。「またりさま」システムでは、他の人の動作に対してシーケンシャルに反応するように なっている。シーケンシャルに反応するということは、「正確に」遅れて反応するということだ。たとえば肩を叩かれたらすぐに肩を叩く。この意味で、「また りさま」はじつにターンテイキング的であり、(交代する)会話的である。
 いっぽう、対面しながら話す日常会話では、声を和するということがあり、ジェスチャーが共起するということがある。動作は必ずしもシーケンシャルに なる必要はなく、並行して起こってもかまわない。異なる時間に始まった二つの動作が、お互いの声や行動を見聞きしながら同時に終わる、というようなことが あってもよい。こうした共時的なやりとりは、「またりさま」では禁じられている。

 三輪さんはどうやら、ものすごく高速の、それこそオリンピックなみに反応する身体をトレーニングすることを目指しているという。もしそのような身 体を持つならば、8人の肩たたきが、ばばばばばばっ、とあっというまにシーケンシャルな反応を実現するだろう。音楽の教育というのはそもそもそういうもの ではなかったか、三輪さんは言う。
 ここのところがぼくとはやや意見が分かれる。なるほどシーケンシャルに素早く反応するということは、音楽の一要素には違いないが、じつは音楽にとって重 要なのは、共起することではないか。誰かの行動がこちらの行動に再参入してくる過程、誰かが自分と並行して何かをやっているのを見聞きしながら、自分の行 動の落としどころを変えていく過程こそ、じつは誰かと奏でるということであり、この共起ということはシーケンシャルな反応と本質的に違うのではないか、と ぼくは考える。

 もっとも、このような再参入の過程は、音楽がどんなルールのもとで行なわれようと、複数の人間が演奏する限り発生してしまうだろう。たとえば、い くら8人の演奏者がそれぞれどんなにシーケンシャルな反応に集中しようとしても、その反応の結果生まれてしまう音楽は、演奏者の耳に入り、演奏者の反応の タイミングを微妙に揺らすはずだ。
 三輪さんも、そのようなタイミングのぶれを排除しようとしているわけではなく、むしろトレーニングを積むほど、機械と人間の差がそうしたぶれとして顕在 化するのではないか、と考えているらしい。

20031120

 朝から神戸へ。KAVCでカレル・ゼマン・レトロスペクティブ。今日は「盗まれた飛行船」「彗星に乗って」。セットに使われている版画のきめの美 しさを見るには、横縞と走査線が干渉してしまうビデオではダメで、なんとしてもフィルムで見なくてはならない。「彗星に乗って」には絵葉書のすべて、つま り構図、色 彩、光学、美人、旅、植民地の夢と嘘り詰まっている。空は手彩色に暮れていく

 夜、長岡京の大阪成蹊大学(成安造形大学)で「図鑑天国」。図鑑、ニューメキシコの蒐集物、アップリケ、手製飛行機など、列挙してしまうことに憑 かれた人々のそれぞれの世界を、「図鑑」として切り取る試み。感心したのは、天井から吊るした三百本あまりの縄でそれぞれの「図鑑」世界を区切ってあった こと。縄の多さ、重たさじたいが、列挙してしまうことのおびただしさを表わしている。異なる世界が「おびただしさ」によってつながると同時に仕切られてい る。さほど広い空間ではないと思うのだが、じつにすっきりした、それでいて、各世界はきわめて密度の高い展示になっていた。山下さんが以前からすごいと 言っていたアップリケ作品を見せてもらうが、あたかも浮世絵屋のように、後ろの平棚から、次から次へと、ありとあらゆる食べ物を表わしたフェルト作品が現 われる。エビ天にはちゃんと赤いシッポがついているし、開きにはちゃんと細い骨をあらわす刺繍がほどこしてある。かぼちゃの背には緑の糸で、腹には黄色い 糸でフェルトがふちどってある。こうやってフェルトになってみると、食べ物というのはじつに明快な色を持っているものだなと思う。

 山下さんの誕生日ということでアトリエで打ち上げ。池内さんと5年ぶりくらいに会ったり、Amigaユーザーだった頃に何度も会っていた由良くん に10年ぶりぐらいに会ったり、いろいろ驚いた。

20031119

 高橋さんが来てAIBO解析の続き。AIBOにプログラムされた「立ち上がる」「歩く」という行為の単位は、人が反応することによって揺らされ る。おもしろいデータなので、被験者の人に連絡して、ネットでの公表の許可を取る。いずれ動物行動学会のアーカイブに登録依頼しよう。人間とロボットの データというのは未だないはずだ。

 高橋さんが行動をすごく細かくコード化しているのを見せてもらいながら気づいたのだが、マイクロスリップは、行為を細かく見ていくと消えてしま う。正解があらかじめ与えられていないシークエンスにおいては、スリップというのは行為の変更点をはさんで初めてそれとわかるので、変更点以前の時点で、 それをスリップと判断することはできない。
 観察者から見ると、行為の変更点を中心に未来と過去にスリップは開かれているというわけだ。
 行為の転換点がすべてスリップというわけではない。スリップにはおそらく行為が機能を果たし損なった感覚が関係しているはずだ。
 となると、スリップは「忘れていた」ということばと同じ性質を持っているはずだ。ということは、スリップも「忘却論」の対象として扱えるということにな る。おお。なかなかいいアイディアが出た。

20031118

 午前中、十字屋に行き、Florilegiumハイドンのシンフォニーを室内楽アレンジしたCDを買う。「おもちゃの交響曲」も各声部がクリアだ とずいぶん様変わりして聞こえる。
彦根に戻る。会議や相談などいろいろ。

20031117

 京都でコミュニケーションの自然誌研究会。神崎さんの「非難と弁解のしかた」に関する話。老人から「なぜ席を譲らないのか」ととがめられるときの 事例をさまざまな場合について考えるという、なにやらカフカめいた話でおもしろい。
  席を取るという行為が難儀なのは、座りたいという自分の要求が顕在化するあさましさであり、譲るという行為で難儀なのは、譲ってやろうとい う好意が顕在化するあさましさである。よって、この二つの顕在化を回避するのが名人芸ということになる。席を席取り八段が電車に乗り込んできて、あたりに まなざしを配り始めたかと思ったそのときに、席譲り八段がもう立ち上がっており、八段は体を入れ替えるように八段の席に座るというのはどうか。

 飲み会で、山森さんに認知言語学の知恵をあれこれ授かる。
 谷さんと夢の話をしているときに、夢の視点はなぜあやふやかという話になり、そうか、夢 とは起点が欠けて関係項と対象だけが浮遊している現象なのだと思いつく。ならば、夢語りをするときには、起点の欠けたRFジェスチャーが頻発するはずであ る。これはジェスチャー実験に使える。その他、回文夢、線路が左右に分かたれていく夢など、夢のパースペクティブを転倒させる技法についてあれこれお話。

 メモによれば(最近は酔っているときにもメモをとる)、そのあと話は貨幣論に入っている(この辺から記憶おぼろげ)。私には彼にあげるものがな い、という人は物々交換ができない。しか し、貨幣制度があるならば、私は、彼ではない第三の男に何かをあげてその見返りに金をもらい、そして彼から物をもらった見返りに金をあげることができる。 すなわち、貨幣は、「ワタシと彼」「第三の男とワタシ」という関係を交換することを可能にするのである。すなわち、貨幣を介して関係は交換されるように なった。

 次に、「excuse」ということばの不思議について語っている。I excuse youといえば、わたしはあなたを許すという意味である。いっぽう、I excuseといえば、いいわけをするという意味である。causeをex(外化)するというexcuseがなぜ「いいわけ」と「許し」というまったく立 場の違う二つの意味を担うようになったのか。ここにはcausationを見る二つのまなざしがあるのではないか。

 さらに、話は「どっちが落語現象」に進んでいる。これは落研出身者の島田くんの話で、なんでも老人ホームに慰問に行って落語をしているとき、一人 の老人の体がだんだん倒れていき、しまいに横にごろんと転がると、足が宙に浮いていったのだそうだ。どうやら日常茶飯事の光景らしく、介護の人はとくに助 ける様子もない。それで、島田くんはそのまま落語を続けていいのかどうか迷いながらしゃべり続けたのだという。異種格闘技を見るような話だ。おそらく老人 の身体変化も落語であり、島田くんの語っていたのも落語である。

 この他、研究を気持ちよさに乗せる技法についてあれこれ話していたような気がするが、終電をとうに過ぎ、京都泊。

20031116

 二日酔い。昨日に引き続き午前中はボトムアップ研。昼食時、サイゼリアで宮崎さんの遺族調査や医療調査の話を聞きつつあれこれ考える。ある体験を 語り合う懇話会のようなものは、単に体験を分かち合うことを目指しているというよりは、語ることで、それが唯一自分のものであることを、より深く語ってい くことになるのではないか。これは語ってもよい、と思える場、語りが許される場は必要である。が、そうした場は、「分かち合う」とか「共有する」というこ とばだけではくくり切れない、体験の個別性をより明らかにしていくように思う。

 京都へ。みなみ会館でゼマン・レトロスペクティブ。「水玉の幻想」「ホンジークとマジョリカ」「王様の耳はロバの耳」「鳥の島の物語」。ぼくの好 きな60年代の作品とは違うのだが、それぞれ楽しめた。「水玉の幻想」の頭がキンとするような壊れやすさにもひさしぶりにしびれたが、切り絵の関節が首を かしげる「ホンジークとマジョリカ」が意外な魅力だった。切り絵のぎこちなさがかえって愛らしさを高めてしまうのはどういうことだろう。身体はなぜ脱臼す ることでよりまじりけのない身振りとして受け取りうるのだろう。ラストのペガサスの青い羽のはためき。「王様の耳はロバの耳」はあたかもジョージ・パルの ようなパペットのなめらかさ。「鳥の島の物語」の、走る足の伸縮!(ときどき手書きアニメになっている)。そして海のきらめき。(あの波と舟はストップア ニメーションなのだろうか、にしてはあまりにスムーズすぎる)

 夜遅く彦根に帰宅。

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