The Beach : Jan 2004


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20040131

 土日は原稿を書く時間がたっぷりあるのだが、どうも「冬」到来でキーボードが進まない。こういうときはジタバタしてもすかすかな文章にしかならない。

 あきらめてM−1グランプリ2002のDVDを買ってきて、笑い飯のところだけ何度か見る。
 昨年(2003)に比べるとまだお互いの声がかぶってたり、聞き取りにくいところがあって、逆に、一年ですごくうまくなったのだなと痛感する。 西田の声は太くなったのではないか。

 それにしても、「機関車トーマス」>「席譲り」ネタは一年以上おいてみてもまったく鮮度が落ちておらず、凄かった。とくに、番組で見たときにはよく聞き取れなかった哲夫のセリフが「『コント』するんで」だったとわかり、改めてショックを受けた。

 笑い飯のボケ合戦は繰り返しを深くしながら、こちらを悪い夢のような男子男子女子女子時間に落とし込んでいくが、とくにこのネタでは、繰り返しが思わぬ場所で「顔」のごとく待ち伏せていて怖い。
 哲夫がおばあさんに席を譲る動作を二回繰り返す「あざやかさ」からしてすでに気配が濃い。このなんということのない動作が、あとで「あ、『コント』するんでみなさん隣の車両に移動してください」という声に続いて繰り返され始めているとわかった瞬間の、「シャイニング」も真っ青の怖さ。その哲夫の怖い空間に、吊革をゴムのように伸ばし(あるいはハサミで切り取り)、大股で滑り込んでがっちり居座る西田の、平城京のような晴れやかさ。
 そして車輪の音が脱臼するという笑い飯得意の擬音置換ボケに続いて、車輪の音にこっそり混じる哲夫のつぶやきが「きかんしゃとーますっ、きかんしゃとーますっ」だと分かった瞬間の、後ろからJ文式土器で殴られたような衝撃。ジャック・ニコルソンのタイプライターで打っている文字が小説ではないと分かる瞬間をほうふつとさせるが(させんでもよいが)、ええ土でできている分、笑い飯の勝ちである。「見たわ!見た!見た見た見たわ!みな見たわ!」という西田の絶叫は、そのままこのネタを見る者の叫びに聞こえる。

 去年の日記を見直してさらにショック。このネタのことをぼくは「どちらがレールの音を聞きながらより正しい機関車でありトーマスであることができるかというネタ」と思い出している。記憶がずさん過ぎる。が、ある意味、正しい印象だという気もする。

 最近、コタツでパソコンを打っていると、猫が膝にのってくるようになった。例によって、前脚で踏み心地を確かめてから、くるりと丸まる。なかなか可愛いのだが、なにしろ体重が5kgあるので、長い時間乗られると足はしびれるし尻が痛くなる。


20040130

 からだとこころ研究会(略称BM、もしくはカラコロ)第一回は明和さん。チンパンジー乳児の顔表情認知について。
 人間の場合、白眼部分が多いので、横目でにらむという表情が可能となる。そしてチンパンジーの乳児はこの横目にらみをどうも認知できるらしい。いっぽうで、チンパンジー自身は横目でにらむということをするかというと、ちょっとわからない。チンパンジーが目玉が大きいので、そもそも「横目」という表現がはっきりしない。
 顔軸と目線が異なるという現象は人間特有なのだろうか。白眼部分の多いサルにはもしかしたら「横目」があるのかもしれない。
 荒川くん、河野さんも遠方から来てくれて、まずは順調な滑り出し。やはり参加メンバーが多様なほうがディスカッションが楽しい。会終了後しばしコタツで談笑。

 爆笑オンエアバトルに笑い飯が予告されていたので楽しみにして見ると、なんと200に満たない点数でオンエアなし。どれほど壮絶に客席が凍ったのか見たかった気がする。じつは年末に録画したオールザッツの短いネタ(ジュースを間違えたときの心の叫び)を昨年来何度となく見ているのだが、何度でもおもしろいのだ。最初に哲夫のほうが「え、あいつ清風うかったん? 専願併願? え、併願? へー、併願なん?」などというだけで、専願だの併願だのというごりごりしたことばを気がついたら中学生の頃から符丁のように使っていながらなんとも思ってないオレらのヘンな歴史、が博物館に展示されているようですでにして笑える。
 おそらく奈良県立歴史民俗博物館をもう一度見たらとんでもなくおもしろいはずなのだが、ビデオを撮っていなかったから、それは心の中だけにある。

 それにしても爆笑オンエアバトルの観客が笑うタイミングは、無理に殺伐とした瞬間に向けられていてどうも違和感を感じる。単におもしろくないというよりは、皮肉を言いたくてたまらないのに相手が見つからない人々の集会を見ているようで、それがどうもひっかかる。


20040129

 夕方、市営のプールに行く。ここのところあまりまとまった時間、身体を動かしていなかったので、試しに泳いでみることにした。それにしても、プールで泳ぐのは何年ぶりだろう。
 とりあえず平泳ぎで25m泳いだらあっという間に息があがってしまった。体力の衰えは半端ではない。楽な背泳ぎバタ足に切り替える。これまたすぐに息があがる。あきらめてしばしウォーキングする。プールの底に青くて丸いものが見える。カルキかと思ったが、どうも目がちかちかしてあらぬ模様を見せているらしい。あらぬ模様にしては美しい。
 三回目の背泳ぎくらいから、ようやく上を見る余裕が出てきた。5mのあたりにフラッグが下がっているのだが、それまでは気づかなかった。天井の模様を見ればコースアウトせずに済むのだが、それに気づいたのも三回目くらいからだった。
 かれこれ50分くらい水の中にいたが、トータルでも10往復していないと思う(途中から何回泳いだか数える気力も失せた)。外に出ると身体がやたら重く、家に帰る頃には吐き気すらした。
 が、夜中近く、近所のモスバーガーに歩いていくときには、妙に身体が軽くなっていた。

 彦根市民活動センター(スミス教会)で、絵葉書プロジェクトの説明。


 

20040128

 最近、有線でよく、ホルストの木星をカヴァーした曲がかかる。ぼくはこれがとても苦手で困っている。原稿を書くために喫茶店は必須なのだが、このゴタイソウな曲が流れてくると、一挙に思考が萎えてしまう。このところディーバ(?)に歌わせる風習が定着しつつある君が代のような押しつけがましさを感じてしまう。じっさい、このカヴァーの音の感じって、いかにも格闘技のリングとかサッカー競技場で流れそうだ。あまりに何度も流れるので、しばし歌詞に耳を傾けてみたが「どうでもええわ!」(笑い飯の西田の声で)とつっこみたくなる内容。

 高橋さんが来てアイボ解析。本年度中には論文にできるだろうか。

 ナラティヴ・セラピーに関する本を精力的に訳しておられる小森康文さんの講義を聴く。ナラティヴ・セラピーについての話に接するのは初めてで、ずいぶん勉強になった。
 ナラティヴ・セラピー(プラクティス)では、まず、問題を外在化する。たとえば汚物を扱う性癖があって困る、という場合に、それを「性癖」とか「病気」といったその人と分かちがたいものとして捉えるのではなく、「プーさん」という風に、問題じたいに名前をつけてみる。汚物は「プーさん」の「作品」であり、汚物をもてあそぶという事態は「プーさんが猛威をふるっている」ということになる。
 その上で、「プーさん」がおとなしい場合、つまり、汚物をもらしたりいじったりせずに済んだ場合について、どうしてそうなったかを当人に質問していく。答えが出なくてもいいのでたくさん質問する。すると、「○○さんの家にいるとき、プーさんはおとなしい」とか、「○○をしているとき、プーさんは静かだ」といった答えがたまってくる。このようして、「プーさんがおとなしい場合」という「ユニークな結果」についての物語を「分厚く」していく。
 (この、分厚くする、という表現がいいなと思う。読み応えのある本を用意するような響き。)

 このアプローチがおもしろいと思った最大のポイントは、医師がこうした「ユニークな結果」についてのやりとりの記録を手紙に書いて当人に送る、という点だ。この手紙は、ある程度他人に見られてもよい内容になっている。送られた当人は、それを読んで、家族や近しい人に手紙を見せる。そうすることで、手紙は「流布」し「評判」になる。

 医師が出す手紙では、創作としての物語が語られるのでなく、問題の歴史が綴られていく。とくに、問題につぐ問題が続く中にふと現われる「雲の切れ間のような」ユニークな結果について詳しく綴られる。(この「雲の切れ間のような」という表現もいいなと思う)

 統合失調症(精神分裂病)歴の長い人の家族たちは、症状が現われる事態のことを、スキゾをもじって「好蔵さん」と呼ぶことがあるという。この、命名(問題の外在化)の余裕。

 今日、いちばん痛くも腑に落ちたのは、小森さんの「問題を責任転嫁しない人がよい医者なんです」という話だった。つまり、人や、人間関係に問題を求めるのでなく、問題を外在化してそれに取り組むのがよい医者である。。
 人間関係がよい/悪い(うまくいかない)ということを、コミュニケーション論ではつい言ってしまいがちになる。しかし、実際の実際の臨床においては、当人たちに対して「あなたたちの人間関係はうまくいっていない」と指摘することは、当人たちの人間関係を呪うことになりこそすれ、それを回復することにはなるとは限らない。治癒にあっては、まず問題を、個人や人間関係の良し悪しという考え方から切り離したほうがよいのかもしれない。


20040127

 博士論文公聴会。学生との相談。原稿。ちはまでキムチ鍋。

 コンビニでつい「エースをねらえ!」を買ってしまう。読むのはものすごくひさしぶりだが、読み進めるうちに「あああ、このコマ覚えてる」がいくつも。不思議と筋とは関係がない。お蝶夫人がひろみからバラをもらって「まあ!」と喜ぶ顔のコマ(この顔が他の顔に比べて異様に浮いているので印象に残っていたのだ)。あるいは、ダブルスを組んだ二人が正面を向いて手を広げて、正面のお蝶夫人が「2/3を支配している」コマ(二人のポーズがあまりにタイソウなので覚えている)。あと、ひろみが渦に引き込まれて、眼前にひびわれた大地がババンと広がっているところとか(すごい心象風景である)、「女子テニスをこえるかもしれん!!」と言いながら、なぜか倒れるひろみとそれを支える宗方コーチに波ざぱあーーんとか。ともあれ、一気に二巻読んでしまう。ひとりひとりがオンリーワン、が流布している時代にあっても、ドジでダメな子がナンバーワンになるという話を読み進めるおもしろさはあいかわらず古びていない。


20040126

 講義、原稿、ゼミ。
 夜、水野さんの博士論文を読む。長期観察に裏打ちされた研究で、研究の苦労についてはひとことも書かれていないにもかかわらず、博士課程生活の喜怒哀楽が伝わってくるようだった。
 特に、ヒトとチンパンジーの違いは、乳幼児がほほえむかどうかにあるのではなく、むしろ微笑む乳幼児を見て母親が笑うかどうかにある、という指摘は、チンパンジーの感情生活について考えさせられる。
 たとえば、同じような経験をすることで、同じ感情が異なる個体に共起することはチンパンジーにもあるだろう。しかし、誰かの感情表現を見ることでそれと同じ感情が共起するか、という点では、チンパンジーとヒトの間にはもしかすると決定的な差があるのかもしれない。
これは、相手の感情を推察できるかどうか、という問題とは異なることに注意。相手に笑いの感情が起こっているかどうかを判断して自分の行動に反映させる能力と、相手の笑いの感情によって自分の笑いの感情が励起される性質とは、同じではない。
 心の理論や感情理論では、しばしば、他人の感情を理解することと自分の感情を励起させることとが混同される。しかし、この二つのできごとは区別される必要がある。
 この点で、ラカンの鏡像段階というのはなかなかあなどれない考えだという気がする。じつは、単に相手の感情をシミュレートできるかどうかが問題ではなく、むしろ、相手の感情を見たときに(シミュレートできるかどうかというような判断抜きで)相手と同じ感情が励起されてしまうことのほうが、ヒトにとっては重要な問題ではないだろうか。つまり、感情をうまく読み取れるということよりも、否応なく感情を励起させられることが、ヒトをヒトたらしめているのではないか。


 少なくとも、他人が笑っているのを見聞きして笑う、というのは、もしかするとヒト特有の認知なのかもしれない。
 (ここからは妄言だが)、たとえば、コメディ番組にあるような、あらかじめエキストラの笑いを吹き込んでおくことで視聴者の笑いを促進するというような工夫は、チンパンジーには通じないかもしれない。


20040125

 朝、彦根を発ち埼玉へ。義父の一周忌。長時間の正坐を覚悟して行ったのだが、椅子が置かれてあり助かった。なにしろ冷たい床での正坐は尻によくない。

 夕方、東京に出て銀座の月光荘で吉田稔美さんの個展。ピープショーは和物が増えていっそう充実していた。タイムトンネルの向こうに300年が見えるうらしまたろうを購入。
 スパン・アート・ギャラリーに行き、昨年買った桑原さんの覗き箱を受け取る。ぴったり収まる木箱に入って、手提げに入れると確かな重み。

 有楽町の本屋で倉谷さんの新著「動物進化形態学」(東京大学出版会)。新幹線の中で読む。これはすごい。門外漢のぼくにも、その凄さ、オリジナルさが伝わってくる。
 教科書的に事例が網羅されているわけではない。むしろ、形態と時間を考えるときにどのような手続きがありうるかに狙いを絞り込み、ていねいに、確かな力で書き進められている。その力を支えるただならぬ熱は、これでもかと盛り込まれた精緻な図版から伝わってくる。実体顕微鏡を覗きながら、ピンセットで選り分けられた柔らかい組織をいくつも比較しながら抽出された確かな輪郭の数々。これらの図版が描かれるために、どれだけの形態への思考が費やされているのか、考えただけでも気が遠くなる。

 隣の客の香水がきつくて参る。が、バウプラン、原型、ファイロタイプ、反復説と少しずつ読み進める。自明だと思われていたことがごりごり掘り起こされる感じ。
 前も書いたことだが、時間に沿って形が変化するときに何が起こるか、そこにどんな拘束条件があるかを考える点で、進化形態学はジェスチャー論にさまざまな示唆を与える。今日読んでいて、おお、と思ったのは、発生においてモジュール間に相互作用が爆発的に起こるのは、初期や後期ではなく中期である、という指摘。これはおそらく、エーデルマン&トノーニが考えているような脳内の神経発火淘汰過程や、ジェスチャーの生成にもあてはまる指摘ではないだろうか。
 覚えやすいようにキャッチフレーズを作っておく。
 初めジタバタ中パッパ後は粛々進む発生
 つまり、最初のうちはそれぞれのモジュールが刺激に反応しててんでに活性化しているのだが、相互作用はさほど多くない。
 それが中期になると、活発に大局的な相互作用を始める(発生ではこれが器官発生期にあたる)。この段階にこそその動物群の特徴がもっともよく現われるので、形態的に確認しやすい。これをファイロティピック段階と呼ぶ。
 中間段階を過ぎると、相互作用は多数発生するものの局所的になる。つまり、ある程度モジュールのまとまりが安定して、事は粛々と進む。
 ジェスチャーを見ていて、いっけんばらばらだった身体の各パーツが、あれあれと見る間に協調的に動きだすことがあるが、この「ファイロティピック段階」というのは、あのまとまりが見え出すときの感じをよく表わしている。おそらく、身体の各パーツ動作に関する捉え直しがある程度貯まってくると、動作が終わる前に捉え直しが再参入されるようになって、ある時点から急速かつ大規模な相互作用が展開するのだ。

 夜、彦根に戻る。マグライトで覗き箱をのぞく。何度か覗いても、どうしてこんな風に見えるのかわからない箇所がいくつかある。たぶん、目が、納得することを拒むような仕掛けがほどこされているのだろう。折りに触れて覗くことになりそうだ。
 昨年ギャラリーで見たとき、他の箱は全部売約済で、この箱だけが残っていた。他のものが部屋を模しているのに対して、この箱だけは小さな廃墟というかランドスケープを描いている。それがダゲールの風景画に少し似ているような気がして、買ったのだった。こうして覗いてみると、光学的にもいちばんダゲールに近い箱だったのかもしれない。この箱の小ささと重さは、これから書くことになる絵葉書論やパノラマ論の小ささと重さに変換されるかもしれない。


20040124

 昼までぐっすり寝る。本当はきょう東京に行く予定だったが、しばし原稿書き。
 久しぶりにLightWayTextの縦書きを使ってみる。
 原稿用紙モードはなかなかキモチがよい。時間配分を考えながら打てる。
 自分が一時間に原稿用紙何枚書けるかを知ってることって、けっこう重要だったりするんだよな。
 〆切をぎりぎりまで遅らせて、もう今晩しかないってときに、自分が底力を出したらじつはどこまで行き着けるのかを見極められるなら、自分にエンジンかけて、ユンケル飲んで、とにかく行けるところまで行こうってモードに入ることができる。ただひたすらアタマのなかで起こるできごとを打ち込むマシンとなって、指から考えをダダモレさせていけばよい。
 原稿ってたいてい字数制限があるよね。800字でいかがでしょう、と言われたならば、その800字に向かって、現在400字あたりを走行中だな、とか、まだまだ前半だなとか、そういう感覚があるほうが一発でドライブできる。
 多くの場合、言いたいことは言われた字数におさまる。ただドライブする感覚が違うのだ。400字ならちょっとそこまで行って帰ってくるだけだし、20000字なら、ちょっとしたRPGをやり始めるくらいの感覚になる。原稿用紙100枚単位になってくると、はたして自分が帰りつけるかどうか不安になってくる。なってくるが、「行きて帰りし物語」となるためには、少なくとも覚悟が必要だし、それがどのような旅の途中かある程度把握しておく必要がある。読者のために適切な休息ポイントを設け、喉の渇きを潤さなければならない。
 このような、旅の目印として、原稿用紙は便利だ。なにしろ小学校のころから400字マスメで書き方を教育されているので、よくも悪くも自分の体感と結びついている。原稿用紙の真ん中のしきりを越えるときは、柔らかく二つ折りされた紙の山を越えるような気分になるし、一枚の端にたどりつくと、ああ、また一枚、丸めることなく書き続けることができた、という安堵感で少しほっとする。

 夜、NHKでからくり人形特集。弓曳き人形が弓に顔をぐっと近づけていくところは本当にすごい。弓曳き人形の上半身の動きは7つのカムの連動。複数の時系列をいったんばらした上で、再び同期を再現するそのメカニズムは、あたかもジェスチャー論そのもの。「浅草十二階」を書いたときにお世話になった東野進さんが段返り人形の解説をしておられた。
 からくり人形については以前、学研から出ていたからくり人形セットのサイトが充実している。

 からくり人形の動きを見ていたら、急にピアノを弾きたくなり、右手と左手をできるだけばらばらにしてみる。
 ばらばらの線が、弓に顔を近づけるように、次第に気配を濃くしていく。力がこもっていく。笑みを含んだ顔は、弓をひきしぼりきったところで、上を向く。この、最後の最後にあさっての方向を向く感覚。音楽のように放たれる矢。

 「エンタの神様」という番組を少し見たが、ひどい内容だった。
 この番組の演出家は、テレビのバラエティ番組の感覚で芸人のネタを扱っている。やけにセットやビデオに凝る。
 今日やってたアンタッチャブルのコントなど、ドリフのようなセットが組まれて、二人はズラをかぶり衣装をつけていたが、普通のスーツにマイク一本でやったほうがはるかにおもしろいと思った。アメリカザリガニにいたっては、下手くそなビデオ撮りに柳原がつっこんでいるだけで、コントにすらなっていなかった。これでは芸人がかわいそうだ。
 漫才やコントの魅力は、何もない空間が語りに感染していくところにある。たとえば、笑い飯がM−1でやった「奈良県立歴史民俗博物館」は、なにもない舞台が奈良県立歴史民俗博物館化し、二人の顔がJ文人化していく時間がおもしろいのだ。もし同じネタを博物館のセットに縄文人衣装を着てBGMをつけてやったら、ブチこわしだろう。
 いちばんひどいと思ったのは、長井秀和のネタのすべてに字幕がついていたこと。自分が自分に遅れるときに笑いは発生する。早いしゃべりで観客をおいていくのも芸のうちだ。それを文字で確認できたのでは、観客がどこまでもついてきてしまう。
 演出家にとっては、バラエティ番組で字幕をつける感覚なのだろうが、耳で聞いたことをいちいち目で確認しなおすことが、どれだけ笑いをそぐか、わかっていないのだろう。


20040123

 卒論〆切。今年は4人ともジェスチャー論だったので、おもしろくもありはがゆくもあった。
 やり残したことはいろいろあるが、それはそれとして、焼き肉屋で打ち上げ。奇妙にテンションが高まったテーブルにはいちめんに肉肉肉、そこにさらに「マスターからのサービスです」と美味なるタタキが。バイトで昨年の卒論生の小野山くんの株がにわかに急上昇する。
 タクシーで帰宅。テレビで「Shall we ダンス?」を久しぶりにみる。タマコ先生が主人公と「王様と私」を踊るところがいい。夜中過ぎになってようやく腹が普通の状態になった。


20040122

 月曜日のコミュ研のあとの飲み会で、「ふんばる」の「ふん」とは「踏む」か「糞」か、という議論があった。そういえば「ふん」という接頭語には「ふんじばる」「ふんづかまえる」「ふんだくる」など「踏む」由来では説明できないものがいくつかある。「ふんぎる」は「踏み切る」から来ていると言われるが、「糞を切る」から来ている可能性も捨てきれない。
 口をつぐんで力を入れるとき、つい鼻から息がもれてしまう。この音が「ふん」に似ている。おそらく「ふん」ということばには、この鼻息に関するいくつかの感覚が織り込まれているのではないか。
 鼻からの息もれは、脱糞時にもよく起こる。おそらくは力をこめたときのこの鼻息の感触が「糞」を「フン」と呼ばしめたのである。
 呼ばしめた以上は、「ふん」の音は鼻息を経由して脱糞のイメージと連動する。大腸からフンを絞り出す力、なかなか終わりの見えない一本グソに句切れを入れる肛門括約筋の力が「ふん」にまとわりつき、「ふん」を拡大する。
 「ふんぎる」ということばの起源が「踏む」であれ「糞」であれ、少なくともそこには糞切りをする括約筋感覚がまとわりついている。ふんじばる、といいながら相手をきりきり縛り上げるとき、そこでは、こちらの意に逆らって尻から垂れ下がっているフンに対する荒々しい括約筋の力がなぞられている。
 
 などという話を一昨日していたら、美穂ちゃんが「フンがあるならニョウもあるんじゃないですか」と画期的な意見を言った。画期的だが、はたしてそうか。「にょうばる」「にょうづかまえる」「にょうだくる」。どうも力が入らない。やはり尿は出すと言うより流れるにまかせる行為なのだ。
 「にょう」は「超」に似ているような気もする。「超」のかわりに「にょう」と言ってみる。「にょうウマイ」「にょうカワイイ」「にょうヤバイ」。言う尻から、いや、膀胱からもれていくような語感だ。徘徊老人になったら使ってみたい。

 明日が卒論締め切り日。研究室のこたつ世界はなおも続く。


20040121

 朝、パク・ヨンスクさんとムーンさん来訪。ゆうこさんを被写体に「マッド・ウイメン」シリーズを撮影。なんだかこのところ身近な人間が次々とドキュメンタリ化されて妙な感じ。
 日差しがあるのに凍るような空気。卒論も佳境。今日の最高気温は 1度だったらしい。
 紀要に掲載予定の「ニウス:物語と「事件」の通路 −のぞきからくりの物語構造−」を WWWに掲載しておく。 PDFバージョン HTMLバージョン。巻町郷土資料館の「幽霊の継子いじめ」を題材に、からくり節の物語構造について論じたもの。「幽霊の継子いじめ」の起源については、いくつか新しい知見が得られたと思う。


20040120

 科博の大迫さんから、バルトン撮影の磐梯山の幻灯写真の別刷をいただいた。いくつか資料協力したのがご縁で連名にしていただいた。十二階の設計者バルトンに関する論文に名を連ねることができたのはうれしい。
 卒論指導。夜に吹雪。夜中近くに帰るとき、道が凍っていた。美穂ちゃんと小林さん来訪。明日のパクさんの撮影準備のため。免税店で買って帰ったグレンモレッジのポートフィニッシュ飲んで寝る。


20040119

 The Beachに忘却論を新たに設ける。とりあえず二つの文章を公開。「忘れていた」ということ「東京物語の『忘れ』」。東京物語論のほうは昨年の次世代人間科学研究会で発表した内容に議論を足したもの。

 京都でコミュニケーションの自然誌研究会。串田さんのオーバーラップにおけるターン冒頭の再生 recycle と継続に関する発表。じつに周到な分析だった。前回の定延さんの発表といい、今回の串田さんのといい、この研究会はここに来て、ある種の成熟期に入ってきたのではないかと思う。
 夜、飲み会のあとおとなしく帰るつもりが、飲み屋にサイフを忘れて菅原さん宅におじゃますることに。


20040118

 母と関空駅で別れて、はるかで彦根に戻る。2時間ほど寝てから大学へ。卒論を見て、宅配ピザを食い、また卒論を見る。23時頃帰宅。


20040117

 タクシーで空港へ。パリ発ウィーン経由。トイレを済ませるように免税店であれこれ買い物。免税店で買う土産ものには、とにかく金を放りましたという感じがつきまとう。行く前から戻るあてのある旅というのは、あまりにできすぎている。できすぎている自分の運のバランスをとるべく金を放る。

 機内で例によってチキンラーメンが出る。チキンラーメンは麺の芯が残っているくらいのかたいのがうまいと思う。以前から同じ好みの人間がけっこういるのではないかと思っていたが、どうもぼくはかなり早い部類らしい。ぼくが食べ始めてやや置いてからあちこちで麺をすする音が聞こえ始める。
 それにしても、こうやって大阪に帰る機内で何人もがチキンラーメンを食っている状況というのは、「よくぞ日本人に生まれけり!」とという心の叫びがあちこちから聞こえるようでキモチが悪い。


20040116

 TGVでパリへは1時間ほど。リールはブリュッセルにもロンドンにもパリにも近く、なかなか便利な街ではある。オペラ座の近くの宿へ。
 出発前には「前にきたときにパリはもう見るところは見た」と言っていた母だが、よく聞くと、オペラ座は前を通りかかっただけだというので、ならば中に入ってみようということになる。ぼくも中に入るのは初めて。ガルニエの設計は遮蔽の変化がおもしろく、歩くだけでめまいがする。舞台にはちょうどアイーダのセットが置かれていた。

 この3日間、写真を何枚も撮っているが、構図を決めすぎるのが何かいやで、ついいい加減な写真を撮ってしまう。旅先で整いすぎていることが続きすぎると、何かよくないことが起こるような気がする。息子であること、母親であることじたいが、すでに逃れがたいことことなのに、たとえ写真であれ、そのような関係に構図などを設けるのは、何か未来を狭めているようで気に入らない。手ぶれが起こったり、色調がおかしかったりすることで、ようやく安心できる。かといって、そんな写真が続くと、今度は別のわざとらしさが現われてきて、また不安になる。何かから逃れるような撮り方が続く。

 せっかくCartExpoの開催期に来たので、母につきあってもらい会場へ。とはいえ、気が落ち着かなく、あまり本気で探索する気にならない。母親が息子の趣味につきあうだけでもできすぎなのに、それなりに母がおもしろがっているのはもっとできすぎだと思う。
 リールの絵葉書を繰るうちに、1910年代と20年代の聖マリー=マドレーヌ教会の写真絵葉書が見つかった。昨日リールで撮った写真の構図とそっくりで、不思議な気がする。

 夜、メトロで凱旋門前に移動し、シャンゼリゼを歩き、やけにはやっている店を見つける。店の前のメニューを見ると、またしてもムール貝がずらずらと並んでいる。この際ムール貝づくしということにして、ムール貝のグラタンを食べる。

 9時過ぎにホテルに戻る。どういう話からそうなったのか、戦後すぐの頃の話になる。何度か聞いた、いくつかの辛いできごとについて。あるいは、このような話に向かいながら、うまく行き過ぎることから逃れようとするのかもしれない、と思う。


20040115

 TGVでリールまでは30分ほど。Lille Europeからタクシーであらかじめ取ってあったSoffitelへ。やや郊外にあるSofitel。部屋に置いてあったパンフで知ったが、あの不忍池のほとりにある台形を積み上げた異様なビルはこのSofitel系列のホテルらしい。
 トラムでLille Frandre駅へ。駅前の通りに巨大な機械風の門がずっと続いている。中途半端に趣味が悪い。ずいぶん金をかけたのだろうが、もう少しマシなものを作ればいいのに。
 そのなんともヘンテコな通りを抜け、地図を頼りに歩く。坂を上り角を曲がったところに巨大なドームがあり、母と「いくらなんでもこんなに大きなところではないだろう」と言い合うが、そこが目的地の聖マリー=マドレーヌ教会だった。ここには、やなぎみわさんの「Grandmothers」が展示されていて、母はそこに登場するGrandmothersの一人。
 入り口にいたスタッフは、母の顔を見るなり「あ、出てる人ね」と言って、あれこれ便宜をはかってくれた。作品だけでなく、裏にある祭壇も見せていただき、この大きな教会が第一次世界大戦のリール爆撃を生き延びながらもやがて経済難に陥り、80年代に市の管轄となった経緯を教わった。
 教会の記憶、シンメトリーがかつてもたらしたであろう意味の記憶が重なることで、二本での展示とは異なる重層的な作品になっていた。両翼のチャペルで談笑を交えながら通訳している少女たちの姿は、この世にはない合唱隊のようでもあった。

 教会を辞して、駅前の居酒屋でまたもムール貝を食べる。身は昨日のよりやせていたがミルク煮してあって、スープはうまかった。


20040114

 朝7時に起きて朝食。軽く街を歩いて地理を確かめる。数年前に一度来ているのだが、細かい街路はほとんど覚えていなかった。
 十時前に母を連れてグラン・プラスをぐるりと回り、小便小僧の小ささを確かめる。「王の家」博物館、ギャルリーを歩いて午前の部は終わり。
 午後は雨。傘をさして骨董屋、寺院、王宮公園など。
 夜、グランプラスの地下を降りた店へ。テーブルに着くなり出てきた日本語メニューに俵万智のなんということもない歌が載っていて気をそがれるが、この際その「笑うように歌うように積み上げられたムール貝」とやらを食ってみようということになる。
 食べながら歌句作り。最後のは母の添削を受けた。

 雄弁な口にミルクをたたえをり
 青ざめる殻積み上げし金盥
 ムール貝 食みゐし君は匙置きて 愛する者を大切にせよ


20040113

 朝いちばんの「はるか」で彦根から関空へ。2時間前にゆうゆう間に合うはずが、風速20mで、電車は連絡橋を渡らず、りんくうタウン止まり。連絡バスは長蛇の列。おとなしく待っていたら、いつまで経っても列が進まず、結局出発の50分前にようやくチェックインカウンタに。すでに母は来ていた。あと10分遅かったら今日の出発はできないところだった。
 関空→ウィーン→ブリュッセル。今回は母が出ているやなぎみわさんの作品を見るためにリールに行くのが主な目的。それ以外はスケジュールはとくに決めていない。
 夜9時近く。中央駅は人もまばら。トランクのキャスタが石畳にはずんで派手な音をたてる。教会横のホテルに泊まる。


20040112

 のぞきからくりの論文を「物語・「事件」・ニウス」と改題して紀要に投稿。
 夜、だらだらと過ごし、明け方にあれこれパッキング。


20040111

 卒論生がそれぞれやってることをてんでバラバラに聞いてくるという、この時期特有の現象。これをやるとアタマを次々と切り替えねばならないのでたいそう疲れる。  帰って「新撰組!」の録画を見る。どうも三谷幸喜独特の間がうまく出ていないような気がした。たとえば沢口靖子が香取慎吾のアタマのコブをいじるところ。


20040110

 文楽チョキチョキ勉強会へ。結局朝までかかったもののレジュメが間に合わず、トランクに携帯プリンタをつめて大阪入り。しかし、なぜかKeynoteにぶちこんだ図版が薄く印刷されてしまい、結局一枚一枚印刷して池内さんに急遽切り貼りしてもらって事なきを得た。
 以下の図の矢印についてひとつひとつ検討していくというのが話の内容。時代があちこち飛んでしまったが、山下さんのフォローに助けられなんとかつとめあげた。


 雨森さんに誘われて今宮戎の人並みをかきわけて、露店と露店の隙間を抜けると、そこに忽然と秘密の打ち上げ会場が姿を現わす。十日戎のすべてが見渡せる抜群のロケーションで鍋。はたさんの指導のもと、「石狩鍋」のコンセプトから出発したが、出発時点からすでに酒粕にシャケににんにく味の効いた無国籍料理、やがて牡蠣が入りあんこうが入り、理由はわからないがわれわれは確実に南へ向かいだし、ブイヤベース風のスープを存分に吸ったジャガイモはもはやこの世のものとは思えず、ジャガイモ好きを自称する藤本さんをして、「これは絶品です」と言わしめる味にまとまった。
 出たとこ勝負で万事快調と思えた鍋だったが、最後に残ったスープにあん肝とごはんを入れたところで、突如、太陽を浴び損ねたみりん干しを焼くような異臭が漂い始めた。もしやこの匂いを越えた向こうにさらなるステージが、と思って口にふくんだとたん、それまでの味の記憶がすべてふっとんでしまった。
 窓の外の十日戎も人通りが減っていた。濃厚な鍋に別れを告げ、大阪に着いたころには最終の新快速は出た後で、急行きたぐにで危うく帰宅。長い旅行から帰ってきた気分。


20040109

 このところ毎日卒論指導状態。もっとも、この作業をするうちにいろいろジェスチャー論のアイディアが貯まるので貴重な時間でもある。コタツを出したとたんに卒論生の研究室在籍時間が飛躍的にのびたのだからコタツの力はあなどれない。  晩飯を食ってから明日の準備。文楽やのぞきからくり資料を読み直すうちに明け方。


20040108

 ジェスチャー論を書き始めて3日になったので、とりあえず正式メニューとする。リンク名は「Quiet Media」。ジェスチャーについて思いついたアイディアを書きためておくことにする。

 本年最初の講義も淡々と。窓の外で雪が舞い、学生の目もぼくの目もついついそちらに。
 研究室にコタツを設置。コタツを出すのはかれこれ4年ぶりだと思う。卒論はコタツで追い込みに。
 井本くんのチンパンジー描画論を見ながら描画概念についていろいろ考える。
 昨年から放ってあった「幽霊の継子いじめ論」をさらにバージョンアップ。そろそろ出さないと。
 夜、つい「白い巨塔(第二部)」を見てしまう。第一部を見ていないからうかつなことは言えないが、少なくともこの回はテンションが高くてぐいぐい引き込まれた。やはりキャラがはっきりしたドラマはええなー。
 唐沢寿明がワルシャワの展望台でワーグナーに合わせて指揮をするかのように手術の手つきをする場面があった。彼が眼前にしている美しい街並みが、ナチスに徹底的に空爆しつくされ、戦後徹底的に復元されたワルシャワ旧市街であることを考えると、かなりきわどい演出ではある。
 やはり唐沢寿明が、記念講演をやるばかでかい建物は文化科学宮で、こちらも戦後のスターリンの遺物であることを考えるとなかなか意味が深い。ただ、こうした背景が分かるようにはドラマは組まれておらず、画面に映っているのはただ美しい街ワルシャワだった。
 ワルシャワに学会以外の意味を感じていないらしい日本人医師、という設定のおかげで、よくも悪くもポリティカリー・コレクトの問題から離れて、おもしろい演出になっていた。アウシュヴィッツは「負の遺産」として記号化しやすいが、ワルシャワがどういう街かは記号化しにくい、ということだろう。


20040107

 急遽リールに行くことになり、航空券を取ったりブリュッセルとパリの宿を確保したり。その他大学業務を淡々とこなすと夜。家で七草がゆ。松の内はあっという間に過ぎた。


20040106

 天満橋のドーンセンターで会話分析研究会。串田さんのアイディアで、シェグロフ風に会話データを紙で隠し、少しずつ読んでいきながら先を予測するという試み。これだと、結果を見てから事後的に解釈することを防げるので、自分の会話感覚が試される。次の発話に何が効いているかがより発見されやすく、よいやり方だと思った。うちのゼミでもぜひやってみたい。
 いつものごとく天満橋の地下で飲みながら話。
 NIFTY のweblogサービスを使ってみる。基本的にはhatenaなど他のblogサービスとさほど変わらない感じ。ジェスチャー論を思いつくまま書き込んでみる。タイトルをつけてから書く文章というのは、日記のようにあてのない文章と違って、かんたんに焦点が絞られ、良くも悪くも短く締まった文章になる。いまのところ継続して使うかどうかは保留。


20040105

 大学で卒論、修論指導。朝からあれこれ仕事をしてまたたく間に夜。池田朗子ちゃん来訪。ビノキュラで手近なものを見て遊ぶ。このビノキュラ(実体顕微鏡)は、京大の人類学教室の建物が壊されたときに、実験室からゴミに出されようとしているところを救出したもの。レンズの中にはすでにカビが生えてしまっているが、見る分にはさほど支障はない。ビノキュラは Bino(双眼)という名の通り、二つの目でミクロの世界を覗く両眼立体視のためのツール。みかんの皮の液胞は薄皮に包まれたゼリー、そのひとつひとつのきらめき、完璧な丸さ。皮の裏側はふかふかのパンで、フォーカスを移動させていくと、パンの絶壁をよじのぼる思い。


20040104

 部屋を片付ける。いらぬ誘惑を与える本を納屋に入れてしまい、執筆に必要な本をずらりと並べる。机の面が現われるまでに数時間かかった。


20040103

 昼過ぎ、妹が2歳半になる甥を連れてやってきた。一昨日会ったときは、ぼくを見ると泣いて逃げ出していたのだが、今日は少しずつ近づいてくるようになった。プラスチックのゴルフの練習球でほんの2m離れてボール遊び。まだうまく受け取ることはできないが、投げるのはなかなかうまい。オーバースローでそれなりに狙ったところに球がいく。こちらから「いくよ」と声をかけると、まるで水を受けるように両手のひらを突き出す。もちろん、それではうまく受けることはできないが、受けるつもりがあるという意志表現にはなっている。なかなか興味深い。
「びっくりした」ということばを最近覚えたらしく、大きくそれた球をこちらがあわてて受け取ると「びっくりした」という。自分がびっくりしても相手がびっくりしても「びっくりした」なのだ。自分が驚くことと相手が驚くこととを同じ感情語で表現する。ミラーニューロンのある動物のことば?

 夜中にやってる「爆笑オンエアバトル」のチャンピオン大会の再放送をときどき見てるのだが、この番組の採点ってみごとにぼくの予想と合わないな。というか、ここに出てくる組がおぎやはぎやラーメンズに上回っている理由がわからない。ラーメンズがビデオを出しまくっているところから見て、売れ行きから言っても彼らのほうがおそらく上回っているのだろう。じゃ、この番組の採点はどういう層を反映しているのだろう? なんとなく、趣味の悪い司会のスタイル(誰が考えたのだろう、あのひどい絶叫)に似合いの組が選ばれやすいような気がしなくもない。
 テレビ番組に関するネタを使う組が多いのも気になった。モニタにツッコミながらネタを作っている寒い風景が浮かんでしまう。それをテレビで見ているぼくの寒さに感染してしまう。中川家の弟がよくやる、関西の私鉄ホームの描写がなぜかほっとさせるのは、少なくともそれが外にでかけてサンプリングされたものだからだろう。


20040102

 新年早々、去年の話を思い出してしまうのだが、年末にNHKFMでやっていた小山田圭吾の番組は、「いく年くる年」の除夜の鐘をはじめNHKの昔の放送を奔放にサンプリングしていておもしろかった。なかでもぐっと来たのは、70年代にやっていたニュース解説のテーマがサンプリングされていたこと。出だしの音色を聞いたとたんに、当時耳をすませていた音楽や、カセットの録音ボタンをチョキの手で押す手触りを思い出してしまった。このテーマ、すごい好きだったんだよなあ。ぽっぽーぽぽ、ぽぽぽぽぽぽぽー(うたってみました)。音色と時代からしてたぶん富田勲の作曲じゃないかと思うんだけどどうだろう。この頃のシンセサイザーの音、ガロの「どこまでも駆けてゆきたい」やこのニュース解説のテーマの音には、まったく知らない世界からの音楽をキャッチしたような感覚があった。

 今日買ったスケッチ・ショウの「ループ・ホール」にはそういう感じの音がたくさん入っていて、久しぶりに耳が改まる感じがした。


20040101

 実家に帰る。姪と甥が4人。姪の二人が大きくなって、だいぶ落ち着いて食事ができるようになってきた。前日に買ったウシくんとカエルくんパペット(たぶん、パペットマペットとは無関係に売り出されているのではないか)で遊ぶ。

 夜、父母に戦争中の話を聞く。父は昭和4年、母は昭和6年生まれで、十代半ばまでの戦争期を、広島県呉市で過ごしている。

 小さい頃から戦争の話は食事の時間にもういやというほど聞かされていて、たとえば母の「空襲警報が鳴って煙幕が張られてから道をうろうろしていたら兵隊さんからビンタを食らった話」などは、出だしを聞いただけで、ぼくも妹も弟も「もうそれ百ぺんくらい聞いたわ」とさえぎってしまうほどなのだが、じつをいうと、それが何年何月の話かというのはきちんと知っていたわけではない。とりわけ母の戦争の話は、ひとつひとつはとても鮮明な話なのだが、時間の順序とは関係なく次から次へと思いつきで想起されるので、どれが戦争中でどれが戦争後なのか判然とせず、何かひとかたまりの重たいものからごつごつした水晶がてんでばらばらな方向に生えているという感じがしていた。10代中頃までぼくや弟妹に繰り返し語られてきた戦争の話は、たいていはその当時の窮乏とぼくの世代の裕福さとを比較するもので、ときにはこちらの生活への苦言につながり、うっとうしいと思うこともあった。

最近、父が当時のことを丹念にノートにつけるようになっていて、そのノートをもとにあれこれ話を聞くと、小さい頃に聞いた話がずいぶんと見通しがよくなった。
 呉市に最初の艦載機爆撃があったのは昭和20年3月19日のことである。父はこの日の爆撃音と、山の側から高射砲が放たれる光を見て、初めて「空襲警報」というのが、ただの警報ではなく、えらいことなのだと実感したそうだ。それまで、町は灯火管制とはいうものの、ほやの中に白熱灯をつけて、多少は夜が明るかったのが、この日以降、家からはほとんど光が漏れることがなくなり、暗い夜に夜なべを続けて、ようやく寝入ろうかという11時ごろに空襲警報で起こされる、というのが終戦までの生活だった。
 母が煙幕の中を涙を流しながら宮原の家に帰ったというのは、この3月の空襲のときの話だ。この空襲以来、疎開ということばは呉でも現実味を帯び、母は翌月に三次の南にある上川立に疎開している。7月1日から2日には呉市街が空襲を受け2000人近くの人が亡くなっている。父親のいた吉浦は、市街地から山をひとつ隔てており、焼失からは免れた。

   呉は広島市と小さな山をいくつか隔てており、原爆の被害を直接受けたわけではない。が、閃光と爆風は呉にも届いた。父は上空高くの光を見たという。母方の祖母は、翌日、疎開地から広島市内に向かい救護などにあたった。

   疎開、というと、つい戦時中のできごとであるかのように思ってしまうが、空襲で家を失ったり子供が徴兵に取られて一家が揃わなかったりといったさまざまな事情から、人によっては、戦時中の疎開生活を戦後も引き続き続けている人も多かった。母も戦後しばらく疎開生活を続けており、宮原に戻ったのは昭和21年の暮れだったという。いっぽう、父はずっと呉に暮らし続けて、終戦後にやってきた進駐軍の駐留先のハウスキーピングを体験しているので、いち早く米軍の生活に接している。
 父と母は二人とも呉に生まれ育っている。だからてっきり、戦中戦後の体験は似たようなものだと思っていたが、じつは同じ呉でも市街地の東と西とではずいぶんと体験が違っているし、疎開のあるなしによっても十代の生活にはかなり差がある。そのあたりも突っ込んで聞いたことはなかった。