The Beach : July 2006


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「絵はがきの時代」
(amazon,bk1)

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20060731

三中信宏「系統樹思考の世界」 クールな系統樹思考をホットに語る方法

 三中さんの「系統樹思考の世界」(講談社現代新書)を読む。これはとてもおもしろい読書体験だった。なぜおもしろかったかというと、読みながら、読書という時間じたいについて考えさせられたからだ。

 この本は大きく二つのパートに分かれる。
 前半では、さまざまなジャンルの系統樹思考を横断しながら、それらが、帰納法でも演繹法でもない「アブダクション」という推論形式によって支えられていることが明らかにされる。
 間奏をはさんで後半では、とくに生物学に話を絞りながら、発見的探索とアブダクションとの関係が論じられ、さらには、祖先を共有する関係図(分岐図)と、祖先子関係を特定する関係図(系統樹)との問題の違いが明らかにされる。
 コンパクトな内容ながら、生物系統学をはじめ言語学、民俗学、歴史学などさまざまな分野に広がる「系統樹思考の世界」の基礎を知り、その現状を俯瞰することができる。

 しかし、それだけのことなら(それだけでもたいへんなことだが)、これはよくできた入門書であり、読者はこの入門書を読み切り、この書「を」学べばよい。

 わたしがぐっと心惹かれたのは、クールな系統樹思考を語っているはずの本書に一貫して流れている、あるホットな情動だ。
 はしばしで漏らされる三中さんの生物学徒としての経歴、書物の渉猟のあとが見られる巻末付録、そしてなぜかあちこちに散りばめられたオペラの引用。これらを単に三中さんの趣味の反映と見るのは早計だろう。
 これらはむしろ、数学的にクールに「分類」されうるかもしれない系統樹的思考のバリエーションを、「樹」として物語るために導かれた表現だと思う。

 系統樹的思考を、ただのよそ事としてではなく、自分の研究生活の営みと添わせるとき、語り手は、ただ思考のタイプを分類するのではなく、思考のトークンを紡いでそこに時間の流れを見いだすことになる。そして紡ぎながら、そこに自らの情動の流れを見いだす。
 このような語りに対して読者は「この語りには、なぜこのような情動が流れているのか」と問いたくなる。もちろん、情動の流れを説明できる簡単なことばなどあるわけはない。あるわけはないから、「この情動を駆動している事情はなんなのか」を問いかけてみたくなる。
 とはいえ、自分ではないよその誰かに宛てて書かれたものについて、「なぜ」と好奇心で問うても自ずと限界がくる。その本が読者にとって切実なものとなるには、それが、他ならぬ、読者自身に向けて書かれていること、その情動の流れが、他ならぬ自分に向けられていることが感じられなければならない。つまり「この物語がなぜわたしに向けて書かれなければならなかったのか」という問いが生まれるとき、はじめて読者は、単にその書物「を」学ぶだけでなく、その書物「で」学ぶことができる。

 この本は、単に系統樹思考の基礎「を」学ぶためのものではない。この本では、人が時間の中で何かを物語るとき、つまり系統樹思考によって何かを記述するとき、思わず知らず駆動されてしまう情動が漏らされている。そして、その情動が投げかける謎に導かれて、読者はこの書物「で」学ぶことになる。極めてパフォーマティヴな一冊だ。
 だからこそ、エピローグに現れるトゥーランドットの唐突な引用も、最後に引用される短かい歌も、けして系統樹思考と無縁ではない。そんな風にこの本を/で学んだ。


20060730

中尾さんとカートゥーンを

 本日もオープンキャンパスでしゃべってから帰宅。中尾さんとテックス・アヴェリーをあれこれ見る。
 じつは昨夜もライブから帰ってきて、中尾さんと午前四時までベティ・ブープを見ていたのだった。本日はその続き。
 中尾さんは、初めて見るカートゥーンでも「ここ!」とか「そうくるか!」の笑いどころがじつに細かい。「へんてこなオペラ」のホコリ(わかる人はわかってくださいな)を見ただけで、「あ、これはきましたね」と、じつに楽しそう。横で見ているわたしは「そこでウケルか!」と、中尾さんの反応とカートゥーンで二度おいしい。

 その中尾さんの「えーと、機関車が出てきて途中から子どもの妄想の中でそこに入りこんでいく映画なんですが、それがもう、これぞ子どもにとっての機関車の楽しさと怖さが見事に描かれているという感じでですね・・・」というリクエストで、今度は、フライシャーの「Play Safe」を見る。
 「Play Safe」はフライシャー兄弟が30年代から出していた「Color Classic」という、カラー名作短編シリーズの一作。カラーとはいうものの、色づけとキャラクタはフライシャー独特の怪奇色の強いもので、しかも子どもの造形が妙にぷくぷくと丸っこく、見た目はかわいさあまってむしろグロテスクですらある。しかも、カートゥーンに対して道徳が求められていた時代のものなので、ストーリーはやけに教育的かつ抑圧的。万人におすすめできるシロモノではない。
 「Play Safe」も、表向きは、むやみと外で遊びたがる男の子を諫めるストーリーで、主人公は機関車を見にうっかり外に出たおかげでひどい目に遭う。
 が、「聖アントニウスの誘惑」をテーマにした幾多の絵画がそうであるように、作品が抑圧的であればあるほど、そこには抑圧されるべきなにものかが顕在化するものだ。禁欲の偉大さを説くために、誘惑ははからずもより激しさを増すのである。フライシャーの道徳的アニメーションもまた例外ではない。

 中尾さんは、フライシャーの映画の細部にこめられた、機関車好きの心に響くおどろおどろしくもメカニックな表現(キモメカい、とでもいっておこうか)が突出する瞬間を、鋭く拾い上げる。
 フライシャーお得意の3D模型が止まって、子どもが模型の世界に入っていくところで「ほらほら!ここでまさにもう妄想が!」。そして機関車のスピードが最高速になると「ほら、ここでスピードが上がるときに車輪が空回りする、これがいいんですよね」

 次の中尾さんのリクエストは妹さんからすごくおもしろいと勧められたものだという。「トムとジェリーの真ん中の話で、耳が出てくる映画があるらしいんですが」。これは難しい。「とんでもない耳が出てきてですね」。『月に行った猫』にそういうシーンがあっただろうか。あれは唇オバケだったような気がするし・・・。とりあえず『Deputy Droopy』という、二人の盗賊が音を立てずに金庫を盗もうとしてひどい目に遭うという「音モノ」をお見せしたがどうやら違うらしい。
 残念ながら何の映画かわからぬまま出立の時間となり、停留所でバスを待っているとき、中尾さんが「男が天国に行って、あれこれ言うらしいんですが」「それって、もしかして、でかい耳がピアノ弾いてる話ですか?」「そうそう!」。わかった。『シンフォニー・イン・スラング』だ。それはまた次回。


20060729

「かえるさんと愉快な仲間たち」@workroom

 オープンキャンパスで20分ほどしゃべってから、大阪へ。東京からやってきたハットリフェスティバルとともに来阪した宇波くんは「新幹線でシュウマイがいけなかった」「いまわれわれがいちばんしたいことは、『ビジネスホテルに泊まって寝る』!」と言いつつすでにビールで酩酊状態。リハでも、「今日はもうあいまいなエンディングばかりにしましょう、ぐへへへへ」などと笑って、静かな曲のオチに突如ギャッとコードを弾く。このようなとき、彼の提案を真に受けてはあぶないのでスルー。新曲以外は軽く出だしだけさらって、本番に体力を温存。

 リハを終えて、夕飯がわりに近くの蛸ぷちなるたこ焼き屋に行く。ソースをつけないダシ入りたこ焼きはたいへん旨く、そして熱い。一個口に放り込むとえらいことになる。宇波くん黙す。彼のみならず、男子七人、カウンタに並んで無言ではふはふと頬張り続ける。手際よく焼かれていくたこ焼きを見ながら、頭の中で「七人ならべて黙らせるー」「形のないうちから、丸められるー」「余分なものなのに、巻き込まれるー」などというフレーズが鳴り響く。なぜかその声は西崎さんの声である。リハで聴いたBRAZILの余韻だろう。

BRAZIL

 本番はそのBRAZILから。新曲は、客との問答形式が組み込まれており、「お金をあげたい人を挙げてください」という西崎さんの問いかけ。やや間があったので、「BRAZIL!」と声をかける。それですっかり責務を果たしたつもりでいたら、理由をきちんと指示された文型にしたがって言うよう求められる。文型が間違っていると訂正を求められる。問答に巻き込まれてみて、改めて、西崎ワールドの強固さに驚く。声はかぼそいが、断固として達成されるべき構造を譲らないのである。

 音では、今日は西川さんのプレイをずっと追っていたのだが、さまざまな経路の中からいちばん細い道を選ぶような、油断ならない単音の足取りは、ひとつの考えの流れを見るようで、このバンドの大きな魅力であることを再認識した。
 ちなみに、BRAZILの2nd、Coffeeは名作なのでみんな聴こう。

POPO

 次第にくれなずんでいく空を背景に、次はPOPOの演奏。workroomの窓の外、高速を走る車を遠くに見ながらPOPOを聴くと、あたかも小さな車たちがPOPOの音をエンジンにして走っているようだった。そう、POPOの音は、この世界が駆動する音みたいなんだ。そして、意外にダンサブル。うしろで立って体を揺すってると、オルガンのベースラインが絶妙にオフビートなことが分かる。

かえる目

 トリはかえる目。「ふなずしのうた」で、「ふなずしのにおいがする」と歌ったら笑いが来た。これまでで初めての経験。東京ではみんなキツネにつままれたようになることが多かったのだが、さすが関西である。
 その後も、歌詞のあちこちで意外な笑いが起こり、こちらの声もついその反応に釣られて大きくなる。ちょっと歌い過ぎたか。
 今日はいつもと違って中尾さんがすぐ右隣で、パーカッションと唄の調子が共振するのがよくわかった。中尾さんのパーカッションは、音量のレンジは通常の人の10分の1だが、密度は100倍くらいある。だからそばで聴くと、こちらの子音のわずかなアタックの差に、一打一打が反応を返してくるのがわかる。「パンダ対コアラ」という新曲で、こちらが「ぱんだ」と繰り返して歌うところで、ブラシがぱつんぱつんと、一回一回鋭さを増してきた。あとで、「あれはやりすぎましたね」と中尾さん。
 こじんまりとしたスペースなので、「弁慶の引き摺り鐘の伝説」と「のびたさん」は、オフマイクで歌う。気持ちええー。本日は宇波くんにまるっきりギターをおまかせしたので、かなり楽に歌えた。新曲の「高度情報化社会」では、木下くんにギシギシとスタッカートの効いた「情報」音を演奏してもらう。

セットリスト

ふなずしのうた
弁慶の引き摺り鐘の伝説
パンダ対コアラ
能登の恋人
コーヒー・ビーンズ
のびたさん
Liliput
高度情報化社会
八月三十一日のうた
女学院とわたし(アンコール)

mapレーベルがすごいことになっている

 さて、POPOの1st、kibitoだが、これがまたすばらしい。窓を開け放して聴くとまたよし。時計も自転車も風に揺れる草も、部屋の内外で動くものすべてがPOPOエンジンで駆動します。

 そうそう、mapからはさらに三田村管打団?の、そしてteasiの「壁新聞」が出てるんだけど、どちらもすばらしい。
 三田村管打団?はビッグアップルと新世界ブリッジでのライブ録音で、管楽器の音が割れる感触が空間のリバーブとともに捉えられた、心浮き立つ録音です。Play it loud!
 いっぽう、teasiは、静謐なピアノの繰り返しで始まる一曲めから、居住まいを正されて思わず全部聴いてしまう、緊張に満ちた一作。ぼくはまだこのバンドの生を聴いてないんだけど、このアンサンブルの美しさはただごとではないと思いました。
 イトケンさんのzupaはまだ聴いてないんだけどこちらも期待大。mapレーベルはいま大注目です。


20060728

テーブルに猫

 さて明日は来客なので部屋でも片付けるか、と、盛大に掃除機をかけたので、猫はしばらく押し入れから出てこなかったが、あとからつるつるになった床をあちこちはい回った結果、いつになく何もない広々としてテーブルが気に入ったらしく、長々と寝そべりやがった。おかげでテーブルクロスは猫の毛だらけに。結構毛だらけ猫灰だらけ、とはこのような事態を指すのであろうか。


20060727

会話分析研究会

 京大のメディアセンターで会話分析研究会。今日は串田さんの出してきた練習問題で二時間ほど。「・・・ってあるやんか」「(沈黙)」といったやりとりについて考える。院生の人たちはかなり練習を積んだらしく、みんな答え方のセンスがいい。
 そのあと、各自が持ち寄った「提案と拒否」に関するスクリプトを分類しながら検討。そのうちに、どうやら、提案には、具体的なモノを扱う場合と、アイディアを扱う場合とがあり、どうやら後者のシークエンスのほうに独特の流れがあるらしいことがわかってきた。「もので解決できると思っている人には純粋な提案はできない。」とは串田さんの名言。
 提案のときには、「それなら」というフレーズがしばしば使われる。「それ」によって問題が指され、「なら」によって提案内容が指される。提案とは、前に言われた何かとこれから言う何かをブリッジすることによって、問題を浮かび上がらせると同時に案を浮かび上がらせる行為である。

 近くのよろず屋で打ち上げ。ここは昔、近衛ロンドのあとによく来たところだ。ひさしぶりに、ミノの天ぷらを食べる。


20060726

パスの関係

 学校訪問。夏空。自転車を飛ばして行ったので、進路指導室におじゃましたとたん、どっと汗が噴き出てきた。
 高校の先生と大学の先生とは、一人の学生の違う発達段階を見ている。学生は、高校から大学へと託される。学校訪問で高校の先生と話していると、どこかしら、パスを渡し合う関係にいることを感じる。
 この感じは、教育実習生を訪問するときにも感じる。あの洟垂れ生徒がこんなに大きくなって・・・という感じが実習校の先生から伝わってくるとき、目の前の学生は、ただ自分の大学に入学してきた学生ではなく、託された学生になる。このパス関係が感じられたなら、学校訪問はさほど辛い仕事ではない。
 進路の先生がたまたま生物の先生で、いまの高校の生物授業の内容や動物学の話をいろいろ。30分のつもりが1時間ほどお話する。

 帰りに、ひさしぶりに「ラーメンにっこう」に。夏向けに爽麺という限定メニューがおいてある。途中からレモンを入れたりヴィシソワースを入れて味の趣を変えるというもので、意外なうまさ。


20060725

誰かに指示してもらうほうがはかどる仕事

 今日は米田さんに来てもらう日。月に二度米田さんに来てもらうと研究室がぐっと片付き、それから二週間のあいだにまた散らかる。
 これは以前、無藤先生の日記に書いてあったのだけれど、事務処理の苦手な研究者は、月に何度か秘書の人に来てもらうといい。
 書類の山というのは、一人で抱えているととても苦しい。事務処理の種類は多岐に渡り、覚えているのがたいへんである。あれもやらねばこれもやらねばという責務感が頭を占めると、ものを覚えたり考えを進めるときに邪魔でしょうがない。邪魔なのでなるべく考えないことになる。しかし、考えないと、ますます書類が貯まる。しかもそれが散逸する。ああ書類がどこにいったかわからない。責務感に罪悪感が重なり、ますます仕事に支障をきたす。しかも、こうした責務感や罪悪感は、書類の作成にまったく貢献しない。
 というわけで、こうした仕事は、一人でやるよりも、誰かに指示してもらうほうがはかどる。考えるかわりに「この書類に記入してください」「ここに印鑑お願いします」と言ってもらう。言ってもらえれば、そこから向こう1分だか5分だか10分だかは、その書類のために捧げる覚悟ができる。記入ならいくらでもするし、印鑑なら(あやしい書類でなければ)いくらでもつく。

 机の位置を変えて、窓辺まですいすいと移動できるようにする。これで研究室の生活動線がぐっとよくなった。米田さんは書類を机の向こう側からわたしてくれる。机カウンター状態。


20060724

書評

 朝日と読売の書評欄に「絵はがきの時代」が取り上げられた。サイバーパンク世代のわたしは巽氏の名前はもちろんさまざまな本で拝見してはいたが、まさか書評をいただくとは思わなかった。
 林氏の書評も心に染みた。あまり染みたので、思わず、氏のページを拝見すると、ロバート・ライマンについての著作があると知り、さっそく取り寄せる。

 この本はありがたいことに各紙からかなり好意的な書評をいただいた。それもほとんど面識のない方ばかりだ。以下はこれまでのリスト。

朝日新聞朝刊 2006年07月23日号 巽孝之氏
読売新聞朝刊 2006年07月23日号 林道郎氏
日本経済新聞朝刊 2006年07月16日号 木下直之氏
東京(中日)新聞朝刊 2006年07月02日号 佐藤卓己氏
共同通信(京都新聞など)朝刊 2006年06月25号 稲賀繁美氏

 木下さんだけは一度ちらとお会いしたことがある。パノラマ、見世物の現物を徹底的に調べ上げたうえで世の途中から隠されていることを明らかにする数々の著作にずいぶん刺激を受けてきたので、書評をいただいたのはとてもうれしい。稲賀繁美氏のジャポニズムと奥行きについての詳細な論考(中景の喪失!)は折りに触れて取り出すし、佐藤卓己氏の「メディア社会」も一気に読んで、里山論について改めて考え直したところだった。

 書評のもたらす「あの人が読んでくれた」という感じは、感想のお便りをいただくときの感じに似ている。もちろん、書評が出ることはとっても売上げに響くので、そのありがたさもそこに忍び込んでいるのだが。

さまざまな絵はがきプロジェクト

 ところで、このインターネット時代にも、絵はがき愛好家のさまざまな活動が存在する。
 まずは水曜どうでしょうの「絵はがきの旅」。じつはこの企画の存在、本を出したあとに知った。ぐわー。知ってれば絶対言及したのに。この企画をなぞって、みずから絵はがき再訪の旅に出る人もいるという。
 この企画は、最近の絵はがきをもとに旅をするものらしく、みうらじゅんの「カスハガの世界」に通じるものを感じる。
 ちなみに、古絵はがきを手がかりにその場所に訪れることについては、以前、再訪するということという文章で書いたことがあるのでどうぞ。

 ほぼ日刊イトイ新聞の絵はがき交換プロジェクト。こちらは、誰かの絵はがきから、旅の気分を味わうというもの。届けられた絵はがきが公開されつつある。

 それからそれから。Tigerlily Scribbleで紹介されていた PostSecret。絵はがきの「露悪性」がwwwに現れたとってもナイスな企画。漏れてます。


20060723

おへその歌

 姪と甥が遊びに来た。五歳の甥は最近かくれんぼが好きらしく、家のあちこちのドアから顔を出してこちらを驚かせる。シャツがまくれてへそを出していたから。ピアノを弾きながら「おへそだらけだねー」という歌をでっちあげる。なかなかいい歌になったと思うので歌詞をメモしておく。

おへそのうた
作詞作曲:かえるさん

おへそだらけだねー
おへそだらけだよー
おへそがいっぱいあります!

おへそ食べちゃうねー
おへそ食べちゃうよー
おへそをいっぱい食べます!

おへそなくなった
おへそなくなった
おへそがひとつもありません!

へー、そー。

 「あります!」のところで、甥が、ぽんぽんと、ピアノを叩いてあいのてを入れる。初めて聞いた曲のブレイクを察するとは、勘の良い子だ。

中欧と絵はがき

 午後、大阪で絵葉書会集会。たまたま隣に座られたのがミュシャ館の斎藤充夫さんで、文楽絵はがきの話や木版絵葉書と彩色との違いなど、いろいろと教えていただいた。ミュシャのチェコ版の絵はがきには、しばしばミュシャによる切手が貼られており、裏表でひとつの政治的な物語が語られているのだという。中欧とミュシャ、中欧とキルヒナー。絵はがきを語るとき、中欧というのは重要なキーワードかもしれない。

ふちがみとふなと@ザンパノ/歌と労働

 夜、京都に移動して、ザンパノ(わたしには、元「倶楽部」という感じがする)で、ふちがみとふなと。じつはこのご両人での演奏はすごく久しぶり。かえる(シャンソンらしいのだが、名曲!)、夕暮れ、手紙と、すばらしい楽曲の数々。かえるに郵便、ああ、まるでわたしのために歌っていただいているようだ。久しぶりに聴く「坂をのぼる」もつくづくいい歌だなと思う。
 ふちがみさんは歌のあいだにも、しばしば忙しく楽器を交換させる。ときにはマイクスタンドをがしがし倒して歌う。しかし、それは何も奇をてらっているのではなく、歌詞の中の運動を実現するために、どうしても必要な運動である。
 歌の中の運動。その運動が生まれるために見合った労働。「これ歌ったらビールを飲みます」とふちがみさんが言って歌う「バラバラ」は、何もかもがバラバラになる歌で、何もかもバラバラにするために、マイクスタンドは何度でも倒される。その運動は、ビール、という報酬にふさわしい。
 ふちがみさんの歌がすがすがしいのは、それが、労働の理想形態だからなのかもしれない。


20060722

 workroomで絵はがきレクチャー。ラファエル・キルヒナー、ルイス・ウェインの話を中心にして、誤解される日本像をあれこれ話して計2時間以上。イギリスの炭坑絵はがき(渋い!)を研究されている乾由美子さんや、家族写真を研究されている高橋千晶さんが来場されており、あれこれお話を伺う。

明治天皇の肖像写真

 ぼくの手元にある横浜写真アルバムには、内田九一撮影による明治天皇・皇后の写真が冒頭に収められているのだが、こうした写真はじつは表向きは売買禁止だったそうだ。もっとも、(その規制は厳しい措置ではなかったという話もある。この横浜写真アルバムもそうした、見逃されていた部類のものかもしれない。
 明治天皇の肖像画は石版印刷化され、こちらのほうはあちこちの寺社や家に飾られた。のちには天皇だけでなく、皇太子をはじめ二世代の肖像を含んだ家族画も出回るようになる。経緯としては、たまたま一世代から二世代へと拡張されたということかもしれないし、天皇に孫がいなかったからというだけのことかもしれないが、結果的には、この二世代の写真は、現在の核家族と同じ単位である。
 明日も大阪なので実家へ。


20060721

じゃんけんは人を集める

 こころとからだ研究会は松田さんの発表。とある小学校三年生の遊び時間の遊びの話なのだが、取り上げられている事例に不思議と、遊びに先立つチーム分けというものがない。ドッジボールやキックベースらしきものが起こりかけるのだが、漠然と個人どうしがボールを当て合ったり蹴り合ったりで、役割の交代というのがあまり見られない。
 それが、観察対象となった子どもたちに特有の現象なのか、はたまた、短い休み時間に特有の散漫さなのかはわからない。ただ、じゃんけんがない、というのはずいぶん遊びの印象を変えるなと思った。

 多くのチーム形式の遊びには、「じゃんけん」というフェーズがある。じゃんけんは、単に勝ち負けを決めたり、ぐーとぱーに分かれるためのデバイスではない。全員でじゃんけんをするためには、集まらなくてはならない。じゃんけんは、散らばっていた参与者が集まるきっかけを作り、多人数会話のきっかけを作る。じゃんけんをしようと集まることで、そこで行われるゲームについての簡単な取り決めがふたことみこと交わされる。  つまり、じゃんけんには、遊びの空間配置をいったんリセットし(集合させ)、次なる遊び空間を形成させるという機能がある。
 逆にじゃんけんがないと、全員がひとところに集まって会話をするという契機を持ちにくい。遊びは多焦点になり、あちこちで異なる遊びが並行して行われやすくなる。


20060720

 朝から統計学基礎の試験づくり。そして、本番。

口のある死人

 朝日新聞の織井さんから取材を受ける。「細馬宏通さん (46)、というような表記でもいいですか?」と織井さんが言うので、そこから新聞の記述の話になる。たぶん記事にはならないと思うので、その話を書いておく。

 新聞記事の個人名にはなぜか年齢が付く。事件が起こると、それが何歳の人間によってなされたことかが自動的に明らかになる。「個人(年齢)」という形式は、一種の世代論や発達論に開かれている。14才の犯罪、とか、30代はいま、というような問題が浮上するのも、新聞に掲載される個人に(たとえ未成年者であっても)年齢がついてくるせいだろう。
 「個人(年齢)」という形式には、功罪があると思うけれど、ぼく自身は、インタヴューでそのような表記をされることは嫌いではない。というよりは、なまじ年齢抜きで親しみをこめて表記されるよりも「個人(年齢)」という形式のほうが気楽な気がする。
 それはたぶん、「個人(年齢)」という形式によって、ぼくが、生身の自分から分かたれて、記者の目と耳を通したぼくになるからではないかと思う。インタヴュー記事というのは、基本的にぼくがしゃべった話が再構成されたもので、ぼくの語りの持つ時系列やことばのトーンは、そこでは失われる。それはぼくの考えとは別物だ。
 相手がどんなに優れた編集者であれ、ぼくはそのようなぼくに、全面的に責任を持つことはできない。かといって、いちからペンを取って(キーボードを叩いて)自分で作文したものだけが、この世に公開されるに値する、と思っているわけでもない。ぼくのだらだらした語りをきっかけに、記者のひらめきが綴られる。
 このような、ぼくであってぼくでない、そんな微妙な立場を表すものとして、「個人(年齢)」という形式がある。それはおくやみ欄や死亡記事と同じ表記だ。「個人(年齢)」という形式によって、ぼくはすでにそこにはいない人になる。口のある骸に出会った記者が、そのさまを書きつづったもの、それがインタヴュー記事だ。それで楽々と、ぼくは記者に骸を託す。


20060719

会議や仕事や。一回休み。


20060718

絵はがきの隣に

 午前中、workroomで展示の準備仕上げ。
 じつはほとんどの展示準備はworkroomの塚村さんにまかせっきりだったのだが、藤本由紀夫氏が土曜日に遊びに来て、展示を手伝って帰ったそうだ(ヴェネチア・ビエンナーレ作家のこの腰の軽さって・・・)。そして、そこには彼の静かな狂気のあとがくっきりと残されていた。

 彼は18枚のスイス絵はがきを眺めているうちに「これはつながる!」とひらめいたらしく、絵はがきに描かれた山の稜線をパズルのごとくつなげて、一幅のパノラマを作ってしまった。それは現実のスイスとはまったく別物の配置になっており、ノイシャテルの隣にノイシャテル、こちらから見たジュネーヴの次はあちらから見たジュネーヴ、と、見ているうちにこの世のようなあの世に連れて行かれるシロモノ。これ、必見ですわ。

 せっかく大阪でやるのだからと手元の大阪名所絵はがきを繰っていたら、昭和十年の中之島公会堂絵はがきがworkroomの窓から見えるのとほぼ同じアングルで撮影されているのに気づく。その他、天神橋や淀屋橋、市役所、証券取引所など、workroomから徒歩5分圏内の風景絵はがきを選び、展示を追加する。窓から中之島を眺めながら、70年前の風景と現在との差を検証できるという趣向。
 というわけで、お時間のある方はぜひどうぞ。
 ドイツ・フランスの初期絵はがき展@workroom(場所はこちら)。11:00-20:00、入場無料、日祝日はお休みです。

 そのあと、たまたま遊びに来ておられたギリシャ文学の衣笠先生に、戦前の梅田界隈のお話をうかがううちに、京都時代、時を隔ててほぼわたしと同じ場所に下宿しておられたことが発覚したり、毎日新聞の佐々木氏にほぼ十年ぶりに取材を受けたり。

 夜、藤本さん、塚村さんと飲みに行き、以前から温めているタルホのPH論についてあれこれ。タルホがいま生きていたら「私の耽美主義」に挙げるであろうリスト:都市ガスよりプロパン。ポリエステルよりポリプロピレンン。パパパパパフィ。パンシロンでパンパンパン。おかあさんといっしょよりピンポンパン。林家ペー・パー子。パペポTV。パルナスピロシキ。ピートルズはポン・レノン、ポール・パッカートニー、ジョージ・パリソン、ピンゴ・スター。エルピス。チャック・ペリー。ポー・ディドリー。クレヨンよりクーピー・ペンシル。全部がピン!のこいのこよりぽこあぽこ。単なるP含有率の問題だが。


20060717

 久しぶりに実家へ。母は先日、ついに蒔田さんとの再会を果たしたところで、ひとしきりその話。ちょうど、小林信彦の「うらなり」を読んだところだったのだが、そのうらなりとマドンナの再会話とはずいぶん違う話で、不思議な感じだった。


20060716

川掃除の会話

 連休なれど本日は朝から自治会の川掃除。もちろん、うー、めんどくせえ、と思いながら起きて顔を洗うわけだが、参加してみれば、そこはそれ、いろいろ興味深い。

 きれいとは言いかねる川にじゃぶじゃぶと入り、葦を払い、藻をさらうというセッティングでのみ、流れくる話題というものがある。たとえば、同じ宿舎の環境学部の先生から、このあたりでよくみかけるチュウサギがじつは全国的には準絶滅種であるとか、ヒバリの営巣にもっとも適しているのは麦畑であり、それは麦の根元がしっかりしていて、冬から春にかけて刈り取られることがないからであるなどという話を聞く。別にこちらからチュウサギとは、ヒバリとはなどと話題をふったわけでなく、川に膝まで入っているがゆえに、お互い田仕事をしているような気分になり、その気分の中で藻をたぐるように思いをめぐらしていると、そういう話になるのである。

 例年行事なので、お互い力の抜きどころも分かっており、小一時間川草を抜いたあたりで、自然と「脚が止まる」。あー、もうフォワード動けません、状態になる。だからといって、なぜみんな前線にあがってこないのだ!と叱咤するものもいない。だって暑いもん。それに、この、動けません、というときの陽射しほど、夏を感じさせるものはない。

 かくしてよろよろと草を抜くうちに昼前。解散してしばらくするととんでもない雷雨が来た。


20060715

夏を思い出す方法

 博覧会研究会に向かう途中、大阪駅の構内でつい「カツ&カレー」の店に入ってしまう。注文してからものの1,2分で出てきたそのカレーのルーをゴハンと混ぜながら、そういえばこのところずっとカレーを食べていたことを思い出した。火曜日からカレーカレーで、ようやく昨日、鍋を空にしたところだった。いまさら外でまたカレーを食うことはなかったはずなのだが。
 昔、近さんとマレーシアのキャメロンハイランドに昆虫調査に行ったときに、やはり毎日カレーだった。小皿に入れて出てくる、あまり小麦粉の入っていない魚のカレーが旨くて、それを朝から食べていた。
 そういえば、能登川駅で乗り換えの電車を待っているときの空がもうすっかり夏になっていた。そこから長いこと電車に揺られて、ようやく大阪駅に着いたところで、ふらふらとカレーを求めていた。しばらく熱帯に行ってないなと思う。

ペナントの三角形

 博覧会研究会は谷本研さんのペナント発表。ペナントが扇形に貼ってある。あるいはバックギャモン状に貼ってある子ども部屋を写しながら「この部屋にはキュレーターがいる」と谷本さん。
 外国のペナントをいくつか見せてもらったが、いずれも、二等辺三角形をある種の図形として捉えており、デザインも、いかに三角形を分断するかに気を配ったものになっていた。これに対して、日本の風景ペナントは、三角形を「歪んだ四角形」として捉えていることが多く、書き文字も風景も、底辺から頂点に向けて透視図法のように細まっていく。その結果、壁に貼ると、ただの三角形というよりは、壁の奥に遠ざかる四角形という風情になる。
 三角形の頂点からはまた、翻りやすさも感じられる。四角い旗が向こうに向かってはためいている感じ。旗の先が小さな風で容易にはためく感じ。
 ペナントの原画は、絵はがきを職人さんに見せて作ってもらうことがあったらしい。となると、ペナントの風景には絵はがき的手法が入り込んでいることになる。

ドバイがえらいことに

 橋爪さんのドバイ訪問報告。彼の地はいま、観光開発でえらいことになっているらしく、税金のかからないフリーゾーンに世界企業を誘致して、こんなのや、こんなとてつもない埋め立て地を沖合にいくつも作ったり、森ビル以上の建物をどかどか街中に建てたり、とにかくどうかしている都市計画が進行中。この計画のもとは「王様のアイディア」なんだそうだ。石油は向こう20年で枯渇するといわれているわけだが、その前にさっさと金を使って誘致をすませてしまおうということらしい。反ロハス的とでも言うべきか。

北加賀屋・名村造船

 名村造船跡地がblack chamberというアート・コンプレックスになっているというので、橋爪さんに連れられて観劇に行く。ドックの水際+水場も民営なんだそうだ。海につながっている民営スペースというのは珍しい。おもしろい場所だ。
 やっていた劇のほうは、ヴィジュアルも衣装も音楽もたいへん凝ったものではあったが、残念ながら私にはぴんとこなかった。谷本さんもピンとこなかったようで、あとで二人でビールを飲みながら「なぜピンとこなかったか」についてあれこれ論じ合う。ピンと来ない劇にはそのような効用がある。


20060714

吾輩のオワリ

 本日で「吾輩は主婦である」最終回。八週間楽しんだ。これまで声のみの出演だった本田傅太郎がついに生身で登場。「わたしは読んだだけですから」というセリフが泣かせる。
 出演者の中村泰三氏がとある場所で書いておられたが、本田傅太郎のセリフは、いつもは先に収録したものを使っていたそうだ。ということは、出演者にとっても、彼が生で読み上げるのを目の当たりに見るのは、ある種の事件だったのだろう。あのシーンの長い拍手が、あたかも本田傅太郎へのスタンディング・オヴェイションのように感じられたのは、そういうわけだったのか。役者の演技感情を脚本に乗せていくのに、そういう方法があるとは。

 夕立が降ったあとの、温度の下がりきらない湿度の名残り。ウスバキトンボが飛び、コウモリがシルエットになる夕暮れを見上げつつ自転車を飛ばす。また夏がやってきた。


20060713

部屋を片付ける。あるいはまっくろくろすけ捜索。

 机の引き出しを開けてそこにノートパソコンを乗せて原稿を打ちながら、いくらなんでもこれはちょっとひどすぎるのではないか、と思う。  部屋に入って椅子に座るまで、すべての一歩が跳躍だ。しかも一歩ごとに何かを踏んづけている。床が見えないので、比較的つぶれにくそうなモノを踏んで歩いている。もちろん机にはパソコンを置くスペースがないので、引き出しが登場する。

 かといって、この部屋にさほどの資料があるわけではない。草森紳一の壮絶な「本が崩れる」の写真に較べると、この部屋のモノの量自体は、ごく生ぬるいレベルだ。要は量に比して混乱度が高すぎるのだ。

 それで久しぶりに片付けることにする。アヤハディオで段ボールを十箱くらい買ってくる。こういうときに分別に時間をかけるといっかな片付かないので、とにかく片っ端から床にあるものを段ボールに入れては封をし、部屋の外に積み上げる。すぐに部屋の外に段ボールの壁ができ、ようやく床が見える。椅子がわずかに前後に転がる余裕ができる。

 しかし、ここで手を止めてはいけないので、今度は机にあるものを、がーっとワイパーでなでるように段ボールに押し込める。紙や布や金属や平たいモノや棒状のモノや丸いモノなど、素材も大きさも形もふぞろいなものがざばざばと箱の中に落ちる。机の上にあることでかろうじてモノの体裁を保っているように見えたが、こうやって箱に入れると、もう歴然とゴミに見える。しかし、これをゴミ箱に直行させるほどには人間が練れていないので、未練がましく「デスクトップ200607」と書いて封をする。この方法は、パソコンのデスクトップを整理するときにもよく使っている。

 そうやって部屋を整理したら、長い間聞いてなかったオクノ修の「こんにちはマーチンさん」が出てきたので、それをかけながらさらに箱詰めは続く。まっくろくろすけどこいった。光を当てるぜ。


20060712

手を振って別れる

 松田さん、松嶋さんとやっているゴッフマンの「Frame Analysis」輪読会は、時間の半分以上が本の内容以外のおしゃべりで、これがなかなか勉強になる。今日は松嶋さんから、自閉症児研究の最近の動向をあれこれ教わる。

 本日は「Key and Keying」のお話。わたしたちの儀礼的行動は(遊びにおける行動がそうであるように)、日常生活のさまざまな行動の型を借りて行われる。

 たとえば、手を振ることは、誰かの注意を自分の居場所に向けさせるときに使われるが、それは「別れ」の場面では一種の挨拶行為となる。ここで、ポイントは、「別れではしばしば手を振るという決まった行動が見られる」ということではなく、「なぜ本来は、誰かの注意を自分の居場所に向けさせるための行動が、別れの挨拶で使われるようになったのか」ということ。もっと妄言風に言ってしまうと、なぜわたしたちは別れるときに、お互いに自分の居場所を示し合うのか、ということだ。


20060711

ゼミ講義会議などなど。この時期はひたすら夏休みが待ち遠しい。


20060710

金は渡す以外に使い道がない。

 交換に出すものというのは、わたしにとって使用価値はない。わたしにとっては役に立たないものこそ交換に出されるのだから。では、交換に出す品物の価値はどうやって決まるか。それは受け取る相手が決めるのだ。受け取る相手はそれを使いたくてたまらないのだから。
 そして、わたしにとってはわからないこのモノの価値は、交換によってゲットしたものの使用価値によって決まる。
 もちろん、ゲットしたものが、意外にしょぼかったり(損)、意外に「お買い得」だったりする。あの品物は、使わないから手放したのだが、しかし、そこにはうっすらと、使ったらならこれくらいの価値がある、という記憶が残っている。その記憶が、わたしに損得を勘定させる。

 金を「使う」というときは、相手に渡すときである。金を使って遊んだりは(いちおう)できない。
 金には名前がない。金は渡すことなく使うことができない。金は渡すことで(名前をなくすことで)あらゆるものの価値の尺度となる。
 ・・・というような、『資本論』の最初に書いてあることを無理矢理、漱石こと金(之助)と無名との問題に結びつけて語る、「ラジオ 沼」第324回「坊ちゃんは金(之助)のように無名である」。

 DVDでブニュエル『皆殺しの天使』。意識の流れが無意識のうちに作る袋小路が、空間化するお話。自分のも含め、世界のあらゆる見えない袋小路に応用可能。


20060709

遊びの「緊張と緩和」もしくは「わしは閻魔じゃ。いま茶漬けを食うておる。」(枝雀)

 昨日、飲み会で、遊びとは何か、という話題になった。それで考えた話。

 たとえば猫が甘噛みをする。ほんとうなら、もう少し強く、深く噛むことができる、というところ、相手を傷つけかねないところで寸止めする。すると噛まれたほうは、ああもう少しでガブリと指に穴が開くほどやられると思いながら、その悪い予測が裏切られる。
 じつは、本当に噛まれたりひっかかれたりするときというのは、そもそも悪い予測を感じる暇すらない。気がついたら噛まれたりひっかかれたりしているものだ。
 こちらに予測が起こる、ということは、予測が起こるほどに相手の行動が遅い、ということである。本来、すばやく動けるはずの相手が、こちらの予測を許すように行動している、というところから、すでに遊びは始まっている。

 さて、相手がこちらの手に歯を立ててくる。少し痛い。この痛さがもっと痛くなるのは困る。皮が破れてしまう。血が出てしまう。ああどうしよう、と、文字にすると長いが、そういうもろもろの悪い予測が一度にある種のヒヤアセとなってやってくる。そこに思いがけず、甘噛みが来る。ガブリとくるかと思ったらそれがない。
 しかし、いったんこちらに起こったヒヤアセ的情動はわずかに続いている。おそらくこういう情動はアナログで、刺激がやんだからといってスイッチのように即オフになるというわけではないのだ。それで、情動はヒヤアセだが事態はヒヤアセに至っていない、というズレが起こる。このズレはしゅるしゅると緩和していき、わたしは猫が腕を噛むにまかせている。

 この、相手の行為が中断したあとの、しゅるしゅるという時間。和音が鳴りやんで通奏底音が明らかになる時間。わたしのことばにならない予測が顕わになり、ゆっくりと降下していく時間。それがおそらくは、遊びの核なのではないかと思う。

 そしてまたわたしは腕を差し出す。  


20060708

安定した姿勢の確保

 先週に続き子ども療育センター。今日は午前中に別所先生の講習があり、これはいろいろ勉強になった。
 たとえば、姿勢の重要性。地べたに座った場合、太股が上を向きやすいので、背中を前に出すのは難しくなる。すると、前での作業がしにくくなる。椅子に座ったほうが前傾は楽になる。そういえば、昨年のクリスマス会のときは椅子に座った食事だったが(倚子についてもらうのが一苦労だったことを除けば)、いつもより、前方に集中した行動が見られた。Aちゃんがお菓子をすくうところはそのよい例だったと思う。
 また、畳の間では目に注意したほうがよいという。目が縦だとすべりやすく、脚が安定しない。
 ともあれ、活動の基本は、まず安定した姿勢を確保すること。

スリッパという奇妙な履き物

 今日もBくんのトイレを手伝ったのだが、スリッパを履くところでやはり手間取る。
 スリッパというのは、じつに難しい履き物だ。
 スリッパに爪先を滑り込ませるとき、足のほうは前に移動しなければいけないし、スリッパのほうは固定されている必要がある。しかし、この「固定」というのが難しい。スリッパを使う場所の多くは、タイル張りだったりツルツルの床だったりするからだ。宴会などで大人数がスリッパを使うとき玄関がぐちゃぐちゃになっているのを見れば、いかにスリッパがslippery(滑りやすい)な履き物であるかがよくわかる。
 スリッパを動かさないで、そこに爪先を差し込むには、足の裏をわずかにスリッパから浮かせて、スリッパとの接触を少なくした状態で脚を移動させる必要がある。しかし、これはBくんにとってはかなり微妙なコントロールを要する作業である。スリッパは床を滑って、差し込もうとした爪先とともに前に動くので、スリッパを蹴るかっこうになってしまうのだ。
 それで、今日は、Bくんを腕で支えつつ、片足でスリッパの先っぽをちょんと踏むことにした。これで、スリッパは床に固定される。Bくんは足を踏んだり浮かせたりしながら、徐々にスリッパに爪先を入れていく。
 スリッパ歩行も難しい。脚を踏みあげると、スリッパと床との摩擦がなくなり、脚からスリッパが抜け落ちやすくなる。だから、脚を前に出すときは、ず、ず、と床を引き摺って、床の摩擦を確保した状態で移動する必要がある。
 「スリッパなしで入っていいよ、出がけにぞうきんで足を拭けばいいから」と提案してみるが、Bくんは「やっぱ履くわ」という。スリッパ履きは、便利かどうかという問題ではなく、ある種のチャレンジなのかもしれない。

スリッパは歩くたびに履き直される

 そもそもスリッパとは不思議な履き物だ。脚を持ち上げるとき、脚を前方に振り上げると、スリッパが天気占いよろしく飛んでいってしまう。だから、スリッパを完全に床から離さないように、少しく引き摺ることになる。それでもちょっと脱げそうになることがある。
 スリッパ歩行では、踏みあげるごとに踵が浮き、スリッパ内での爪先の位置がずれる。それで着地した瞬間に、爪先をスリッパに突っ込み直すことになる。病院や学校のスリッパ歩行が、なんだか間が抜けているのは、一歩一歩にスリッパの位置をそのつど調節するという煩雑な行為が織り込まれているからだろう。
 つまり、スリッパは、足を踏み出すたびに、履き直されているのである。それがあの、ペタペタという間の抜けた音なのだ。

手を叩く。手を見る。

 Rくんがぼくのてのひらを何度も規則的に叩く。いつもの遊びなのだが、今日はRくんの足を裏拍で軽く叩いてみた。すると、Rくんがにこーっとしてさらにばしばしと手のひらを叩く。
 手を叩く音が部屋に響き渡る。ぼくは馴れたので、さほどとも思わなくなっていたのだが、今日のボランティアの方は、「おお、おお、そんなに叩いたら痛かろう」とRくんの手を心配していた。確かにRくんのてのひらは真っ赤になっている。
 Rくんがものを叩くときは、とにかく強く叩く。タンバリンも思い切りばんばん叩くことがほとんど。
 ただ、こちらが小さい音で誘ったときに、ごくたまに、タンタンと試すような動きが出る。この、小さな音をおもしろがるようになってくれるといろいろ広がるのだが。
 Rくんの動作には、相手に予測を許すような中断というのがあまりない。むしろ予測不能なときに手が出る。それが、演奏(?)としては魅力な場合もある。ただし、近くにいると彼の手がこちらの顔に当たったりするので注意が必要だ。

 今日はRくんが疲れて寝ころんだところで、こちらも寝ころんでみた。Rくんが上を見上げているので、手を上にあげて開いたり閉じたりする。Rくんが不思議そうにその手を見ている。それで、手を顔に近づけたり遠ざけたりしながら、さらにてのひらを開いたり閉じたりする。単純な動きだが、Rくんはこれをじっと見ている。
 そういえば、ものが自分の真上で上下する光景というのに、あまりお目にかかることがない。と思いながら、蛍光灯を手で隠したり現したりすると、Rくんの顔のうえで影が動く。ぼくの顔の上にも同じことが起こっているのだろう。


20060707

チンパンジーは口を見て、人は手を見る。

 ひさしぶりの「こころとからだ研究会」。今日は一年のマハレ調査を終えて帰ってきた院生の藤本麻里子さんの発表。彼女の主たる観察対象は「覗き込み」。これは、チンパンジーが、他個体が何か食べたりケガをしている最中に、じっと相手の様子を見るという行動。
 てっきり相手の横からちらちら見るようなつつましい行動なのかと思ったら、これがとんでもない露骨な行動なのだ。何かを食べている相手の正面にでんと座って、その口元をじっと覗き込むのである。覗き込まれた側は顔をそらしてしまう。まるでドリフのコントを見ているようで思わず笑えてしまう。
 母親が食べ物を食べているとき、ヒトだと、その口元よりも、食べ物を持っている手を注視することが多そうに思える(これは定量的に調べたわけでなく印象に過ぎないが)。いっぽう、チンパンジーは口元を見る。これは「手渡し」の可能性の低さによるものではないだろうか。
 考えてみると、チンパンジーが手から手へ何か渡す、という場面にはあまりお目にかからない。むしろ口をつきだして食べ物を差し出したり、あるいは手に持ったものを置いたり落としたりして、結果的に相手がそれを拾う、というシークエンスのほうが多い。

ヒトの手は贈り物を持っている

 もしかすると、ヒトの身体動作の中で手の占める割合が極端に高い背景には、手による分配という事情がからんでいるのかもしれない。わたしたちヒトにとって、手に持ったものを相手に差し出したり、その一部を分けることはごく当たり前だが、霊長類を見渡すと、このような行為はヒト特有のものだと思うのだがどうだろう(飼育下のチンパンジーでは飼育者とチンパンジーの間に手を介したもののやりとりが起こるが、野生の映像では、ぼくの知る限りこうした場面にお目にかかったことがない)。
 他者の手は、なにものかを分配してくれるメディアである。だからこそ、その一挙手一挙手に注意が向く。たとえ徒手空拳であっても、そこには架空の贈り物が握られており、ヒトはその行方が気になってしょうがない。
 振り出される手の動きにジェスチャーを見るのは、そこに贈り物の可能性がつきまとっているからだ。そんな風にジェスチャーを考えてみるのはどうか。


20060706

絵はがき2.0を考える

 先日、NTT出版の編集の方とお会いしたときに、思いつきで「絵はがき2.0」という話をした。それをここに載っけておく。

pc02.jpg

 絵はがきに接する態度として、新品の絵はがきをひとつの完成形と見る態度と、使われることでそれはようやく絵はがきの体をなすと見る態度とがあると思う。歴史的には、後者が先で、前者が後なのだが、ここではあえて、前者を1.0、後者を2.0と見てみたい。

 表中、Write Awayというのは、絵はがき会社の老舗、ラファエル・タック&サンズが1900年代に出したもので、絵はがきの絵の横に、書き出しのフレーズの書かれたもの。差出人は、そのフレーズに続けて、自分のメッセージを書き込む。まだ、宛名面に通信欄を設けることが許されていなかった時代、絵はがきの絵には余白が設けられ、そこにメッセージを書き込むのが決まりだった。Write Awayは、この制限を逆手にとった趣向。
 同じ面で絵はがきを作る側とメッセージを書き込む側が関わるこうした関係は、一面をアーティストが完成させる後の絵はがきに較べて、よりユーザーの関わりに対してオープンな仕様である。
 一幅の絵を神聖冒さざるべきものとして考える人にとっては、しろうとの文章がその横に書き加えられることなどもっての他だろう。しかし、初期の絵はがきはそれを許した。というよりも、積極的に書き手を招くべく、余白を設けた。書き手は余白だけでは飽きたらずに絵の中にまで文字を書くこともあったが、それもオッケーだった。そういう可能性を許すのが絵はがきであった。
 

 1回生に絵はがき課題を出す。通常、絵はがきは一人で書くものだが、この課題では、まずAが絵はがきの絵を描き、そこに余白を設けて、Bに渡す。Bは余白にメッセージを埋めて、わたし宛てに投函する。結果は全員に公表される。

 Aは余白を設けることで、そこに書かれるメッセージになんらかの投射をする。
 Bはそこにメッセージを書き込むことでAの描いた絵を意味づける。会話分析の隣接ペアにおける、第一ペアと第二ペアの関係である。一方が完成形を相手に渡すことで閉じる関係を「1.0」と呼び、片方が未来に投射し、片方が過去に遡行することで開かれる関係を「2.0」と呼ぶならば、WWW2.0と絵はがき2.0は同じ性格を持つ。


20060705

吾輩と名前とお金

ラジオ 沼:第323回


 

20060704

吾輩は夫である。名前はまだない。

ラジオ 沼:第322回
 TVドラマ「吾輩は主婦である」について。


20060703

本は読むたびに造り直される 松田哲夫「本に恋して」(新潮社)

 装丁家、造本家の話かと思って読み始めたのだが、そうではない。この本で扱われている範囲はいわゆる「造本家」の扱う範囲を越えて、紙抄(すき)や、本の背の丸みだし、函作り、インキ作りと、本というモノを扱う職人さんの話だ。
 そして、その職人さんの世界の、どこがスゴイかが、内澤さんの見事なイラストレーションとともに浮き上がってくる。その複雑な工程をたどるうちに、目の前の一冊の本が、ほとんど奇跡の産物に見えてくる。

 だって、本って四角くないんですよ、センセイ!
 背中は丸いし、「耳」があるし(ところで、p45の「耳」をぐりぐりやるイラストを見ていると、読む側の耳がこそばゆくなるから不思議だ)、ページの縁だって微妙にRがきいている。表紙の大きさは本文ページの大きさと微妙に違う。カバーや帯をつければ微妙に厚さが変わる。
 この複雑怪奇な、真四角からはほど遠い本という物体が、四角四面の函にみごとに収まる。それも、ぴったりではかえって困る。1ミリもしくは2,3ミリという微妙な「あそび」を残して空気の入るスキマをあけてやらなければ、本は、すぽっ、とは抜けない。そこまで想定した上で、函は絶妙なスキマをとって造られるらしい。
 そんな話を読んでから、書棚の函入り本を見ると、なるほど、上部にミリ単位の暗いスキマが空いている。こんなにしげしげと函のスキマを見たのは初めてだ。あたかも造本のカミサマが籠もっているようではないか。

 「本に恋して」を読んでいると、本作りに重要なのは空気である、という単純なことに驚かされる。
 紙という平面を操作するには紙が空気をはらむことが必要だ。しかし、紙という平面を収納するには空気はじゃまである。そこで、紙は操作にあたっては「さばかれ」て空気をはらみ、造本にあたっては押されて空気を抜かれる。
 目に見えないほどのミクロなレベルでも、紙と空気には微細な関係がある。印刷ずみの紙と紙とが圧着すると「ブロッキング」がおこってくっついてしまう。だから紙と紙の間に微かなスキマを入れてやる必要がある。そこで、「パウダー」なるものが紙にはふりかけられることがあるらしい。そんな、まるでギョウザの皮に小麦粉をふるような技が本にもあるとは知らなかった。

 紙と空気とを巡る技術の数々を読んでいると、ページをばさばさとめくっている読者の手もまた、じつは造本の一過程をなぞり直しているのではないかという思いに襲われる。
 新本の函を振って、耳に指をかけることも、わずかに縁のはりついたページをはがすことも、それをまたぱたんと閉じることも、これすべて本に空気を招き入れ、本から空気を追い出し、本を造り直す行為である。わたしは、ページをめくって本を読むという行為を通じて、本造りをなぞる。読むたびに本は造り直される。
 そんなイメージが、この本を読みながら浮かんだ。これから本を読むたびに思い出しそうだ。


20060702

 昨日は久しぶりに子ども療育センターへ行った。観察眼をリハビリすべくビデオを持たずにノートのみに徹する。はじまりの会で「今日はじつは男の人の手がとくに少なく・・・」と言われ、参与観察という名のお手伝いに。じつはこれまで、ただカメラを回している人、という中途半端な立場の自分にいささか物足りなさも感じていたので、内心、ラッキーと思う。
 Rくんと数ヶ月ぶりに会ったら、ちょっと大人びた感じになっていた。「ひさしぶり」というと、ちょっとにこっとしてから「おっちゃん」と言う。以前には使わなかった語彙だ。

いっしょにトイレに行く

 Aくん、Bくん兄弟の含羞の表情には、妙なねじれがなくて、以前から好感を抱いていたのだが、Bくんのトイレを手伝ったときに、新たな一端を見たような気がした。

 Bくんは歩行器を使わずに、こちらの腕をつかんで歩く。いつものボランティアの人がついているときと、歩き方が違う。わたしのからだの差し出し方はまだ、かなりぎこちないに違いない。
 トイレの入口でちょっと手間取る。体がうまく動かないことへのかすかな含羞と残念さが顔に表れて「スリッパ」とつぶやく。あわてて足下をみると、なるほどスリッパの向きが脚と合っていない。Bくんの左足は力が入りきらないので、スリップの角度がずれていると履くことができないのだ、とそのとき気がつく。それであわててスリッパを置き直す。Bくんは「やった」とこちらを見て少し照れ笑いする。「やった」ということばは、Bくんに向けられると同時にわたしにも向けられている。それが、こちらへの照れ笑いで一挙にわかる。かくして、わたしの拙いお手伝いは、Bくんとの共同作業へと昇格する。Bくんは大人だなあ、と思う。
 人に自分の生理的なことをまかせることで、感情表現が奥深くなる。そういうこともあるんじゃないか。

スナックを指でつまむ

 おやつの時間にポテトスティックが出る。いつもは何の気なしに食べているが、いざ子どもといっしょに食べると、こうしたスナックを食べるときに手がどのように動くかを改めて意識する。
 たとえば、Rくんは、親指と人さし指で「つまむ」ということをしない。彼がものをつかむときは、パーかグーであることが多い。手のひら全体で皿に近づき、ポテトスティックをパーからグーへがばっとつかむ。近づくスピードを加減しないので、そのたびに皿からスティックが飛び散ってえらいことになる。Rくんは手のひらに少しだけ残ったスティックをぺろんと食べるので、手のひらが唾だらけになる。

 そんな様子を見ると、逆に、なぜ自分が手を唾だらけにせずに食べることができるのかが不思議になってくる。自分ではどのように手を使っているのか。なるべく意識しないようにスティックをひょいとつまんでみると、使っているのは親指・人さし指・中指の三本だ。そして、スティック全体をつかむのではなく、端のほうだけをつまむ。これを口に持って行くときは、スティックの指から突き出た部分だけを口で受け取り、そこから、上下顎の運動をしながら、三本の指で少しずつスティックを送り込んでいる。親指と人さし指で最後のかけらを口に押し込んで、ようやく一本のスティックをたいらげる。

 ずいぶんとややこしいことをしている。
 グーとパーのRくんにこんなことを注文するのは無理というものだ。

 向かいのAちゃんは、Rくんほどワイルドではない。親指と他の指とのあいだでスティックをつまもうとしている。が、これがかなり難しいらしい。いったん親指ではさみかけて、そこからてのひらへとスライドしてしまう。それで、人さし指・中指・薬指と手のひらとでスティックをはさむような具合になる。ただしグーのように指先を握りこむのではない。各指の第一関節はあくまでのばされており、ちょうど幅広のクリップではさみこむように、人さし指・中指・薬指と手のひらとが、両側からスティックをはさみこむ。そのスキマからスティックの余りがはみ出る。この状態を保ったまま、Aちゃんは手首を口に近づけて、スティックを口で受け取る。ちょっとぎこちないやり方だけど、これなら、皿からスティックをこぼさずに食べることができる。

力は弱く、意味の強い指

 Rくんが「つまむ」動作をしないのは、指がうまく動かないからだろうか。その答えはイエスのようでもノーのようでもある。
 たとえば本を読むとき、Rくんはページをつまむ、という動作をしない。多くの場合は、グーに近い形でページの面を叩いたり、ページの縁をなぞるだけだ。ページにもまた、パーで近づき、グーでつかもうとする。だから、ページをぐちゃぐちゃと握ってしまう。Rくんの読んだ絵本のいくつかはページがしわしわになり、破れている。

 が、よく見ると、グーの形は一様ではない。ページの縁をなぞるとき、人さし指は少しく伸びて、指の腹でページの縁をさわっていることがある。
 もしかしたらRくんの人さし指は独立に動くのだろうか。試しに人さし指を握ってひっぱってみる。すると、親指ほど力は入らないが、少しく曲げ伸ばしの手応えが伝わってくる。
 「はらぺこあおむし」を読みながら、本に開いた穴(絵本「はらぺこあおむし」では、あおむしの食べたあとを表すために、本に穴が開けられている)をまずわたしの人さし指でなぞる。次に、Rくんの人さし指を持って、この穴を何度かさわり、穴の感触を指の腹で感じてもらう。
 ここで手を離すと、Rくんは、少しではあるが、自分から人さし指で穴のあたりを触る。それから、ちょっとこちらの顔を見る。手応え、というか、指ごたえを感じているのかもしれない。

 Rくんの手の力は強い。人さし指だけでRくんとつきあっていると、彼の手がぶつかってきて突き指するかと思うときがある。

 それで、人さし指は意外と弱いのだなと思う。
 考えてみると、人さし指の意味の強さは、その弱さに支えられているのかもしれない。
 「指一本で動かしてご覧に入れます」と奇術師や曲芸師が口上を述べるとき、そこで使われるのは人さし指である。口上は、人さし指の弱さと、その指がもたらす結果の大きさを対比させようとしている。
 わたしたちの身の回りにあるさまざまなボタンの多くは、人さし指で押されることを想定している。ボタンはオン/オフという、人さし指で押されるほどに強い意味を持っている。そして、人さし指の弱さに見合うほどに、繊細な接点やスプリングを持つ。
 うちにある古い電気ポットから湯を注ぐたびに人さし指がくじけそうになる。電気ポットの大きな給湯ボタンは、おそらく人さし指が耐えうるぎりぎりのラインなのである。

 Rくんは、本をこぶしで払いのけ、ページをこぶしで叩く。しかし、時折、あおむしの絵をじっと見つめながら、ページの縁をこぶしがするするとなでることがある。人さし指が少し伸びている。Rくんにもおそらく、人さし指の弱さに相当する感覚があるに違いない。強い意味を弱い力で示すことができるようになったら、Rくんがポテトスティックを取る手つきは変わるかもしれない、と思う。


20060701

 滋賀県知事選は嘉田由起子氏が3万票の差をつけて当選。琵琶湖周辺河川の研究者として知られる氏がどのような県政を行うのか、まずは楽しみだ。

 栗東で計画中の新幹線駅の建設中止が今回は大きな争点になった。
 わたしは米原駅をしばしば利用しているが、米原駅における新幹線の間遠さと、在来線との接続の悪さにはかなりうんざりさせられている。琵琶湖線の快速は1時間に二本なのだが、新幹線で米原に降りてから、次の電車が20分以上来ないなどということはざらだ。これがいっこうに改善されないのは、JR琵琶湖線のダイヤが京都・大阪・神戸など都市部の接続効率を重んじているからである。
 米原駅の現状から推測するに、新駅の未来はかなり暗い。
 新駅を利用するにはJR草津駅から草津線で一駅行ったところに建設計画されている「草津新駅」を使う必要がある。となると、琵琶湖線、草津線、新幹線の三つのダイヤがうまく連動していなければスムーズな移動は望まれない。が、米原駅の現状から考えて、琵琶湖線のダイヤが新幹線との接続効率を考慮してくれるとは期待しにくい。
 さらに、新駅予定地は、「草津新駅」と400m離れており、計画ではこの間を、恵比寿ガーデンプレイスのごとく、動く歩道の連続で移動させることになっている。在来線を利用する客は、新幹線を降りてからまず動く歩道を何度も乗り換えて在来線にたどりつき、さらにそこで接続待ちをすることになる。何度も脱臼させられたような気分になるだろう。
 新幹線じたいの本数も少ない。一時間にひかりとこだまが一本ずつ、といえば計二本あるように聞こえるが、こだまの接続が悪いので、たとえば東京から栗東に行く場合に、のぞみ>こだまと乗り継ごうとしても二、三十分は待たされる。東京>米原間がそうであるように、東京>栗東間も実質上、一時間に一本となるだろう。
 新駅を便利に使うには駅と周辺目的地のあいだを車移動するのがいちばんなのだろうが、この地方のバス網はきわめて間遠で、タクシー移動は都市部に較べて高くつく。およそ外部から人を招き入れるような利便性はない。
 直接、自家用車で新駅まで行ける人は、その利便性を享受できるだろうが、その需要が開発に見合うほど多いとも思えない。車移動する人は目的地から目的地へ点のように動く。従って、周辺開発も見込みにくい。

 県議会は先々月、この新駅建設にゴーサインを出した。しかし今回の投票結果は、その議決にノーを突きつけた形である。
 いよいよ、新知事vs県議会という、各地で行われている攻防が、滋賀県でも起こることになる。まずは、新幹線栗東新駅の建設を、県議会が果たして中止するのかどうかに注目しよう。


十年ひとむかし

 気がつくとこのサイトを初めてもう10年が過ぎていた。デジタルデータは劣化なしに保存できるものと思っていたが、パソコン通信時代の8インチや12インチ(!)のフロッピはもう使えないし、5インチのフロッピもそろそろ危ない。いや、たとえ媒体に記録してあっても、それがどこに行ったかがもうわからない。意外にデジタル記録は脆い。あやうく前著を書いたころのアーカイヴInternet Archiveに残っていた。


 
 

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