The Beach : April 2007


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20070430

 京都にて。月曜だが休日。昼、山本さんの部屋にスーザンさんが来たので、少しお話する。ぼくは「あいのり」をほとんど見たことがなかったのだが、アフリカに行きたくて出たことを淡々と話されていて、素直な人だなあと思った。出演後も、自分のお金でまたタンザニアに行ったそうだ。


20070429

絵はがきの空

 生田誠さんの家に遊びに行く。生田さんは、ぼくと絵はがき歴はさほど違わないはずなのだが、すでに日本で屈指のコレクターとなり、本も何冊も書いている。そのコレクションのほんの一端を見せていただくが、どこからこんな美品を集めたのかと思うくらい徹底した集め方で、ためいきが出ることしきり。いろいろ拝見するうちに、絵はがきにおける写真合成について、目鱗な発見をする。これはいろいろ調べねばなるまい。浪華屋創業者の回想録をお借りする。

晴天

 連休中で混んでいるかと思ったけれど、日曜の昼間から新幹線に乗っている人は意外に少なく、トンネルを抜けるたびに垣間見える海が遠くまで波のきらめきを保っている。地図で見る半島は垂れ下がった虫垂炎のように見えるけれど、車窓から見るそれは海の時間と海 の時間にはさまれた山並みの時で、修善寺の高原が東から西へとなだらかに落ちていくのに従って、休日はゆっくりと使い果たされていく。

羽化

 半年のあいだ、ベランダに出るたびに、壁にいるアゲハの蛹を見ていた。
 背中に回した細い糸に身を預けている小さな姿を見て、こんなに長い間このままでいるものが、ほんとうに生き続けているのかと思うこともあった。
 彦根を出る前に、蛹の色が急に黒ずんでいるのに気づいた。中で形成されつつある翅の色が透けているらしい。間近いなと思っていたが、帰ってきたら、文字通り、もぬけの殻だった。
 羽化の瞬間は見逃したが、無事に飛び立ったのなら、よかった。


20070428

 スタンプショー@浅草産業会館。

 二天門前を曲がろうとしたら、わあと後ろから声がして肩を叩かれた。見るとみんとりさんだった。会館前には、足立さん、そしてあとからぱんさん。なんだなんだ。
 時間が短いので展示をスキップして即売場へ。うーん、今日はいまひとつか、と思いながらも1万円ほど買う。展示会場へ戻って、みなさんから濃い話を聞く。足立さんのスタンプ帖すごい。王と長嶋のソノシート絵はがきが肩を並べている状態がもう笑える。

伊澤雄司の肖像

 高輪へ。「浅草十二階計画」を見たという方からご連絡をいただき、十二階の土木技師を担当した伊澤雄司の縁者の方にお会いする機会を得た。肖像画と似た顔をしておられる。お話をうかがっているうちにみるみる時が過ぎ、雷鳴がとどろき、通り雨が過ぎ、お暇しようと玄関を開けたら、雨上がりの庭木の匂いがした。

録音機#007 東京ノート

A:あの青い服すごい似合ってたじゃない
B:そうね

A,B: 京王井の頭線、東大駒場前から乗り合わせた乗客二人。

 こまばアゴラ劇場へ。青年団「東京ノート」(平田オリザ作)は、あまりにこちらのアンテナに触れすぎて息苦しいほどだった。声の重複とそのトーンコントロール。誰かに向かう視線、移動、身振りによって生み出される空間の変化。去り際になぜか、それまでひとつの場に居合わせた赤の他人に向けられるまなざし。すぐに逸らされながら何度も伏流することばの一撃。他人の会話が漏れてくることにずっと関心を寄せてきた者にとって、あまりに生々しい内容だった。

 その、観劇の帰りに、乗り合わせた乗客の声から「青い服」ということばが聞こえて耳がそばだつ。劇中、一人の青年が鮮やかな青いシャツを着ていたから。おそらく同じ劇を見ていた人だろう。同じ劇を見ていた人なら、電車の中で劇の感想を話しながら、じつはそれが周囲に漏れていることに気づいて、ひりひりするような綱渡りの感覚に囚われているに違いない。 どんな人がどんな身振りでその感想を言っているのかと思って、ちらと見たら、一瞬だが話者と目が合ってしまった。これはまるきり「東京ノート」ではないか。先方も、たぶんそう思ったに違いない。

 宿に戻って、アメヤさん、コロスケさんと少し飲む。まったく知らなかったのだが、アメヤさんは今年、平田オリザの脚本を演出するという。

20070427

 「東京人」に書評。木下杢太郎について。異国情調とはなんだったのかについての短い考察。紙数があれば、兄太田圓三の活動にも触れたかったのだが、今回は盛り込めなかった。さらに原稿、それから表参道へ。表参道ヒルズというのに初めて入る。舟の舳先のように先細るところから広い船底を見渡すような巨大な構造。おもしろいパースペクティヴのはずなのだが、どうもこうした巨大さじたいになじめない。

レコードグラフィック展@表参道

アジールの佐藤さんとGrafの服部さんが展示ヴィジュアルをやっているというので行ってみた。ちょうどヒルズの船底にあたるところに、ジャケットがずらりと、伽藍を為している。平台に置かれているのはどちらかというと、80年代以降の最近の作家で、たぶん実験的なのはそちらのほうなんだけど、むしろ壁面に並んだ、いかにも70年代的なものに目が行った。

以下、mixiに書いた感想から。

じつはジャケットがバーッと並んでるって光景を想像したときに、わりとイラストジャケが多い光景を想像してたんです。 そしたら、すごい「顔」が多い。それがいちばんびっくりしました。 じゃあ、つまりそれは肖像写真の世界なのかというと、そうでもない。 なんというか、wanna-beを誘ってるというか、 あー、おれも/わたしも、このポーズでギター弾きたい、歌うたいたいという欲望を誘うようにできてると思いました。

あ、そういわれてみれば、確かに80年代あたりからなんか違ってるような気も。
Power Stationのジャケとか思い出しつつ考えたのは、ひとつにはMTVかなあと。じつはMTVが前に出てくる過程で、ジャケを、ただジャケとしてではなく、別のメディアへの流用も見据えつつ作るようになったんかなあと思いました。いつでもジャケでないものに使える図像って、マーケティング的になりそう。これ、中身の音楽にもちょと言えるかも。オフ・ザ・ウォールとスリラーの間にある、ある種の根拠なき自信の喪失。

あと、顔にこだわりますと、30cmLPだとほぼ顔サイズなんですよ。だからジャケの存在じたいがそもそも顔っぽい。そこに顔を入れると顔くささ倍。

今日、神田駅で、松たか子が自分のニューアルバムを顔にかざしてるポスターを見かけたんですが、あきらかに彼女の顔のほうがCDより大きいのでした。CDは顔を覆えない。で、そのジャケというのは、彼女の顔がトリミングされたものでした。なるほど。つまり、LPは顔そのもので、CDは顔の一部なのか。

郵便の偶然

 そのあと絵はがき飲み会。驚いたのは、お会いした方とあれこれ話しているうちに、じつはご実家が、ぼくの借りているアパートのすぐそばだったこと。さらに驚いたことに、その方は、ぼくのアパートから戦前に発送された絵はがきを持っているという。古いアパートなので、気になって入手されたとのこと。

 丸の内に移動。新丸ビルを冷やかす。ビルの谷間からわずかに見える芝公園の東京タワー。ここが渺々たる三菱が原だった明治に思いを馳せる。ホテルへ。

20070426

 朝からゼミゼミ講義。夜遅くに東京着。新幹線の中で原稿、と思ったら電池がすぐに切れたので、ノートに書く。意外にノートのほうが進んだ。 今月のテーマ「しゃがんで見る花」はこれが最終回。 花とみつばちの話。 築港ARCAUDIO をどうぞ。

日照を求めて

この録音をしているとき、例によってしゃがんでつつじの植え込みを見てたら、刈り込まれて平たくなったつつじの面を突き抜けるように、からすのえんどうが伸びていて、さすがはツル植物と驚いた。
横からつつじの上面に目の高さを合わせて見ると、笑っちゃうくらいにょきにょき出ている。 カラスノエンドウの枝やつるは、高く自立するにはひ弱い。が、自分では立てなくとも、つつじの太い枝にからみつきながら、見事に、つつじより頭一つ高いところに出る。


20070425

 講義に会議。書評用に杢太郎の資料をあれこれ図書館で読む。


20070424

 講義会議会議。

録音機#006 Something wild

A: 今日、なんかめっちゃ外であばれたいな
B: そやな、天候ええしな
A: あばれたいて、なんかおかしいな
・・・

A,B: 三回生くらい?の女子学生

 たまたま前を歩いていた学生Aが、研究棟の扉を開けて、建物どうしの間を通りながら発したのが冒頭のことば。建物どうしのスキマからは、芝生のある中庭を見やることができ、彼女はそちらの方を見ながらことばを発した。
 「遊びたい」とか「休みたい」ではなく、「あばれたい」なのだから、そこには、やむにやまれぬ衝動が籠められている。が、Bの返答は、その衝動には触れておらず、素直な同意である。
 Aは自らの発言を引用して、「おかしいな」と評しているが、それは同時に、「あばれたい」という表現をもう一度話題に乗せようとする試みにも見える。

 こういう断片を聞いて、正確に覚えておくのは難しい。今日はポケットのレシートを探り当ててすぐさま書きつけたので、一言一句のレベルで書き取れたように思う。

20070423

 午前中に絵はがき原稿。午後イチで、駄菓子の買い出しに三口屋へ。
 午後の実習はアイマスクをかぶってさまざまな体験をしてもらう。いまや年中行事となった、目隠し駄菓子あてクイズをやる。目をつぶって色をイメージしてもらう、というところがミソ。 

デスクトップフォルダ

以前にも書いたことがあるが、あまりに散らかりすぎてもう仕事にならん、 というときにやるのが、机の上と周囲の一切合財を 段ボールにどんどん詰める、というもので、 この段ボールをデスクトップ・フォルダと呼んでいる。

ごく最近使った重要な文書や本も入っているので、 なまじ段ボールに入れると発掘不能になる恐れもある。 じっさい、数ヶ月前のフォルダを久しぶりに見たら、 どうしても見つからなかった文献が紛れ込んでいた。しかし、机の最下層に眠っていた重要文書を 発見する契機になったりもするので、バランスは とれている。これを「バランス」と呼ぶのであれば、だが。

というわけで、デスクトップ再構築中。 しかし、ケースに入ってないCDが多すぎるな。

20070422

 たまった家事仕事を片付ける。机トップを再構築する。


20070421

町の写真館

 彦根の老舗写真館、シブヤ写真館へ。
 これはものすごい体験だった。明治・大正・昭和の彦根写真アーカイヴともいうべき写真アルバムの数々を拝見して、記憶の集積地としての写真館の力に驚かされた。かんがえてみれば、写真機があり、暗室と現像室があり、スタジオがあるのだから、写真に対するフットワークが軽くなるのは当たり前なのだが、渋谷さんの場合、それに加えて、地元の町の何気ない風景の変化を、定点観測的に追っていこうという独自の動機付けがあって、同じアングルから見た、時間を隔てた写真がこれでもかというくらいある。
 そのアーカイヴを一枚一枚見つつ、渋谷さんの撮影話を聞くだけで、彦根の近代史がするするとほどけてくる。写真だけでなく、写真の手前にいる写真師が語ることで、写真の奥行きが手前に広がってくるようなのだ。


20070420

菜の花の味

 京都へ。
 賀茂川沿いを自転車で行きながら、菜の花のつぼみをちょっとちぎって口に運ぶ。何度か噛みしめると、辛みが舌を刺す。やはりセイヨウカラシナだ。
 彦根の犬上川沿いの菜の花は、ふつうのアブラナなのか弱いカラシナなのか、噛んでも辛くなくて、菊の花に似た花粉くさい味がする。それで、しばらく、セイヨウカラシナの味を忘れていた。
 菜の花はいっけんすると日本の代表的な花のようだが、平安期あたりに朝鮮半島から渡来し、菜種油の原料として活用されるようになった。その後、ロシアからカラシ成分を含むクロガラシが入り、それがアブラナと交雑してセイヨウカラシナとなったらしい。
 京阪電車で八幡市から北に向かう車窓から見ていると、宇治川を渡るとき、河川敷を埋める菜の花の群れを見る。これはセイヨウカラシナだ。大学の植物学実習でここにきて、先生に「ちょっと食べてごらん」と言われて口にして以来、菜の花を見ると、ときどきこうやって千切って味を確かめる習慣がついた。
 そういえば、確か、あちこちに、菜の花につくナガメというカメムシがいたことも思い出した。

 Goodwin本の読書会。データの取り方に関する微に入り細にわたる記述が、チャックらしいなと思う。そのあと近くの店で軽く食事。


20070419

合理化とはなにか

 ガーフィンケルの(フッサール発パース経由で)いう「指標的表現 indexical expression」は、特定の状況や場所や時間に依存しながら行われる表現を指す。

「空間性指標的表現がじっさいにどのような場所を指すかは、そのことばがどこで言われるかに依存する (Studies in Ethnomethodology. p5)」

 「指標的 indexical」ということばは、「客観的 objective」ということばと対になっている。生活の中で発せられる表現は、その場所や時間につながれている「指標的な表現」であるはずである。しかし、わたしたちはしばしば、そこにあたかも客観性があるかのように振る舞ってしまうことがある。
 現場のできごとを記述しようとするものはしばしば、本来なら状況に依存しているはずの指標的な表現を客観的な表現に言い換えようとしてしまう。これを社会学的理由付け sociological reasoning と呼ぶ。このような言い換えの際に使われるのが「合理的 rational」思考である。そしてこの、現場の記述で使われる合理的な思考とは何か、というのがエスノメソドロジーの研究対象となる。
 カルテ、調書、新聞記事、噂、会話、インタヴュー、ひとりごと、声明、などなど、現場を語ることばや動作には、どこかに、現場からしか表現できないことを合理化しようとする力が働く。この力が、エスノメソドロジーの観察対象となる。

 たとえば自殺防止センターでは、自殺死が記述される。そこではなにが起こるか。術語を確かめるために、reflexivity(自己参照性)について書かれた次の一文を訳しておこう。

Organizationally, the Suicide Prevention Center consists of practical procedures for accomplishing the rational accountability of suicidal deaths as recognizable features of the settings in which that accountability occurs.
 自殺防止センターは実践的手続きを構成する組織である。そこでは、自殺死は、合理的説明遂げられるのだが、その説明というのは、当の説明が発生する状況において認識できるような形をとる。

 indexical expressions を remedy する、というのは、「指標的 indexical」なものを「客観的 objective」なものにする、という意を含んでいる。remedyに対する訳語として、「手当て」というのはどうか。たとえば「指標的表現を『手当て』して、客観的表現に変えてしまう」という風に。

質料と統計学

 統計学の講義で、標本と母集団の関係を説明しようとして、「ひとはそれぞれの限られた経験から一般的な考えを得る」、といってから、あれ、これは字義だけを見れば、フッサールの「質料」のことではないか、と、ふと思う。
 統計学は、ある考えを得るときの蓋然性を高めよう(あるいは間違えるリスクを低めよう)とすることに執心する。しかし、帰無仮説が5%有意で棄却されようが、1%有意で棄却されようが、(あるいは棄却されまいが)、ある考えを実践する者は、残ったリスクを一気に跳躍してしまう。「質料」ということばは、その跳躍の力を言い当てようとする。この意味で、「質料」は、統計学の範疇ではない。

20070418

「子どもの教育を考える」無藤隆・永井順國対談

 教育の印象議論を積み重ねる前に、これは必読。現場と政策の両方を往復した両氏ならではの議論。「子どもの教育を考える」無藤隆・永井順國対談。以下にその一部を引用。

 永井:先生方は確かに多忙なのだと思いますが、それに加えて、私が観察していて感じるのは、むしろ「多忙感」のほうが強いのではないかと思います。たとえば仕事がおもしろければ、いくら夜なべをしようと、いくら疲れようと、頑張ってしまうところが人間にはあるのだろうと思います。ところが、いたずらに忙しいばかりで、その忙しい中身を一個一個見てみると、本来の仕事とはかけ離れた業務が多い。そのために多忙感だけが募るという側面もかなりあるのではないかと思います。

 無藤:豊かな社会での学校教育では、生徒である子どもたちはすでに豊かな家庭生活を手にしているわけです。それ以上、上昇しようと思っているわけではなく、今の豊かな生活を維持さえできればいい。だからそんなに頑張ろうとも思っていない。ましてや大学受験で頑張らなくてもいい層については、モチベーションの働きようがありません。昔は大学受験を目指さない人たちでも、勤勉実直であるということが世の中を生きる上において大切であるという感覚であったと思います。そういう感覚が完全に消えてしまいましたから、そうなると今を要領よくやり過ごせばいいということになるわけで、それは非常に大きな変化です。

 それに対して、一部の人たちが誤解しているのは、頑張れ!勉強しろ!宿題を出すぞ!という一種のおどしのようなものが有効であると思っていることです。小学校ではある程度効きますが、中学、高校ではほとんど効きません。ベネッセの調査(第一回子ども生活実態基本調査第三章)にもありましたが、学力の低い層の中高生にはほとんど効果がなくて、いくら圧力をかけても変わらないのです。


20070417

 昨日からえらく寒い。

Sequence Organization in Interaction

 SchegloffのSequence Organization in Interactionが届いたので、さっそく読み始めながらコミュニケーション論のネタにする。第一講はターンの話を説明したところで終わり。いかにターンが当たり前ではないか、について。隣接ペアは、第一ペア部分を取り出してみると必ずしも自明ではないということを、例を挙げながら。

 長い会議二本。

Studies in Ethnomethodology

 シェグロフ本とは別に、論文に使う目的で、じつは原文を読んでなかったガーフィンケルの「Studies in Ethnomethodology」を読み始めたのだが、いや、はじめのほうが難しい難しい。こんなにめんどうな英語を読んだのは久しぶりだ。シェグロフの英語もわかりにくいという話をよく聞くが、ガーフィンケルに比べればずっと読みやすい。山田富秋さんはよくこんな難解な英語を訳しきったなと驚く。
 最初の何節かを越えてSPC(ロサンジェルス自殺防止センター)での話になるとようやく筆が乗って、いいリズムの英語になってくるのだが、抽象的な議論をするときのガーフィンケルの文章はほんとうに読みにくい。  とくに、remedyということばが、いまだにしっくりこない。「改善」だとクリニカルな感じがでないし、「治癒」だと比喩的にすぎる。「慰安」はどうか、とも思うがピントがぼける。

 (成員による)実践社会学的な理由付けは、以下の点で特徴的である。まずどこで起こる理由付けも、成員の語らいや行動の持っている指標的性質を補おう remedy とする。そして終わりなき方法論的探求は、成員の指標的表現をどのように補うかということに向けられるのだが、成員はこうした表現を休みなく行い、自分の思考 ideals を徹底的に使用することで、組織化された活動が観察可能であることを示す。こうした活動は、状況に埋め込まれた特定の語らいや行動を通して、じっさいのできごとの中で起こる。

The earmark of practical sociological reasoning, wherever it occurs, is that it seeks to remedy the indexical properties of members' talk and conduct. Endless methodological studies are directed to the tasks of providing members a remedy for indexical expressions in members' abiding attempts, with rigorous uses of ideals to demonstrate the observability of organized activities in actual occasions with situated particulars of talk and conduct.

 「エスノメソドロジー」とは、指標的表現をはじめとする実践的行為が、いかに日常生活における組織化された精妙な実践としてその場その場で現在進行形で達成されるのか、その合理的な性質を調べることを指している。

I use the term "ethnomethodology" to refer to the investigation of the rational properties of indexical expressions and other practical actions as contingent ongoing accomplishments of organized artful practices of everyday life.


20070416

倒れかけレッスンの反省点

 面談に実習。今年は、前に思いついたように、倒れかけレッスンを三人でやる。一人、演劇部出身の人がいて、このレッスンの経験者だった。やはり昨年と同じく、支える側に立ったときに両足が横に揃ってしまう人が多い。今年は、5人で一人を次々と支えるというのをやってみたのだが、ついついみんなのペースが上がってしまって、蜂巣をつついたような騒ぎになってしまった。支えるというアクションではなく、はね返すというアクションになってしまうのだ。あまり急がせずに、支えていったん止める、というフェーズをきちんと体験させねばならない。これは反省点。

図版におけるスケール感の喪失

 そのあと、例年のごとく、花をスケッチしてもらい、図書館で調べる実習。図鑑を絵合わせで調べる人は、スケールの問題を見逃しやすい。写真には、その植物の大きさを示す手がかりが含まれていないから、記述をよく読む必要がある。たとえば、カラスノエンドウをカスマグサと書いている人がけっこう多いのだが、花の大きさの記述を見れば、じつはカラスノエンドウのほうがずっと大きいことに気づくはずなのだ。
  (ちなみに、カスマグサは、カラスノエンドウとスズメノエンドウの中間の大きさなんだそうさ)。

 毎年、この大きさの間違いが出るということは、写真や図版に、大きさを示す鍵が乏しいということでもある。写真を使ったモノのプレゼンでは、しばしばスケール感が失われる。
 古くはピースの箱を横に置くという手法があったんだけど、近頃あまり見かけない。だんだん、「芸術的な」写真が多くなってきたということなのか。


20070415

「再生」の時間

 たぶん、この日記でYouTubeの映像を紹介したことはいままでなかったと思う。人並みにお宝映像を見て楽しんだりはしてるのだけど、なんというか、その手軽さ、手に入れやすさがどうもしっくりこなくて、あえて日記に書くところまで行かなかった。少なくとも、それはあくまで、「昔見損なった映像を今見ることができてラッキー」というレベルの問題で、YouTubeというメディアを見てすごいと思ったわけではない感じがした。

 だけど、今日、ある映像を見て、たぶん、YouTubeで初めてしびれてしまった。
 まずはこれ以上何も読まずに次のリンクを見て、聴いてくださいな。

http://www.youtube.com/watch?v=QQzGArBxsqc

 そして、もうひとつ、こちらを見てくださいな。

http://www.youtube.com/profile_videos?user=wotomenoko&page=1

 これ、いろんな感想がわくと思うんだけど、どうだろう。

 ぼくは、まず、これを、いわゆる珍しい音盤を見る、というのとはまったく違う感じで見てしまった。

 いいなと思うところはいっぱいある。まず、ラインでなくて、プレーヤーのスピーカーから出てくる音を録っていること。針の乗せ方、上げ方も、儀式めいたところがなく、すいと下ろされてすいと上がる。ポータブルプレーヤーらしく、アームの音がして、ターンテーブルが回転する音がする。レコード盤がたいてい少し歪んでいて、回転するレコードに映り込んだジャケットが小さく上下しながら動く。アームも上下している。

 そうしたささいなことが何もかも、このレコードをかけている時間と場所を想起させる。

 そもそも音楽には、聴くためにさまざまなミキシングがほどこされ、理想的な「聴く」場所がすでに演出されている。その演出は、デジタルに再生されることによって、質の高い再現力を得たはずだった。

 そして、ウォークマンやiPodによって起こったのは、音盤に籠められた場所の感覚はそのままにして、聞く側の身体のいる場所を変化させるということだった。
 これらヘッドホンメディアの魅力は、単にポータブルという点にあったのではない。ミキシングによって作られた人工的な場と、聴き手がじっさいにいる場をぶつけることによって、そこに何か新しい感覚を生むところに、そのおもしろさがあった。

 ところが、この映像で感じられるのは、そういう感覚とはまったく別のものだ。あえていえば、ここに籠められているのは、誰かがレコードをかけている場所、誰かがレコードをかけている時間だ。

 曲がかかっている間、レコード以外の音はしない。ぼくはこの人をまったく知らないけれど、この人はたぶん、このレコードをかけている間、じっと聞いているんだろうな、というのが伝わってくる。ほんの少しの震動で針が飛んでしまうプレーヤー、その壊れやすい装置が、息を詰めて見守られている、そんな感じさえする。

 そして、この映像を見ていると、自分がやはり同じように、息を詰めてレコードを聞き、ラジオを聞いていた時間を思い出す。曲が鳴り出すと、もうやり直しのきかない、触れてはいけない時間が流れ出す。
 触れてもいいのに触れないことで、それはとても近く、そしてはっきりと他人であり、そういうとても近い他人とすごすように、自分はかつてレコードを聴き、ラジオを聴いていた。

 それで、ああ、これが「再生」ということだったんだと思う。再生というのは、いちばん近い他人をここに召還することだった。


20070414

目の前の人を代弁する

 久しぶりに会話分析研究会へ。なかなか時間の都合がとれないのだが、トランスクリプトをじっくり見ながら練達の人々とアイディアを交換するこの会はいつも楽しみ。
 いつもこの会では、練習問題というのがあって、出題者がいくつかのトランスクリプトを並置して「これらに共通の現象はなんでしょう?」と問う。今日は、池田さんによる出題で、サンデープロジェクトの三人の出演者によるものだったのだが、その場にいる人の意見を目の前で代弁する、という不思議な現象を取り上げていておもしろかった。たとえば、宮沢喜一のように、黙ってニコニコしているタイプの政治家が、なかなか意見を言わないと、田原総一郎やゲストが、彼の意見を代弁しだすのである。
 串田さんが言ってたことだが、議論のときに、「わたしはこう思う」方式で言う人に対して「おまえはこう思ってるんだろう、それは違う」という風に畳みかけてくる人は、ときどきいる。これはなかなかおもしろい戦略ではある。というのも、「おまえはこう思ってるんだろう」というときに、話し手が論破しようとしているのは、目の前の相手というよりは、話し手の頭の中にある相手像である。だから、かりに論破したとしても、それは直に相手が論破されたのではなく、あくまでこちらの頭の中にある相手が論破されたのである。こうして、頭の中では戦闘が繰り広げられていても、生身の相手とはにこにこやりとりできるというわけだ。

こうした場面で、ぼくがおもしろいなと思ったのは、「と」という表現。
 「○○はこうでしょうと。で、こうこうこういうことになるでしょうと。それで・・・」という風に、誰かの考えをマインドリーディングするときに、なぜか「と」という語尾で終わる人がいる。「と」は、自分の考えをとうとうと述べたあとに、それを突然、引用にすりかえるような、奇妙な効果を持っている。

 門で飲み会。そのあとアパートに戻ってちょっと飲んで彦根へ。

録音機 #004

A:「んーんーーーんーーーんんー。はい、ここに入れてくださあい。んんーーーんーーんーーー」

 市営駐輪場にて。
 自転車の置き場を指示すると、係員の人は鼻歌の続きを歌いながら受付にゆっくり歩いていく。鼻歌がコンクリートの高い壁にぼわんと反響して、空間を満たしている。何かに似てるなと思う。あ、銭湯だ。

隙メディアとしてのTwitter

twitterを始めて三日、いまだ足もと定まらねども、とりあえずいまの印象を書き留めておきますと。

まず、第一印象では、入力画面の上にWhat are you doing?と書いてあるのがでかいと思いました。もし、これがなければ、「チャットとどこが違うの?」と思ったに違いない。

What are you doing?というのは、よく考えてみるとヘンな問いだ。もっともベタかつユニバーサルな答えは「えー、twitterに文字列入力してますが、何か?」だろう。が、それでは、全員同じ答えになってしまう。

問われているのは「いまなにやってんの?」なのだが、じっさいの答えは、いまやってること(文字列の入力)ではなくて、いまやってることによって中断されたことだとか、いまやってることの直前にやってたこととか、直後にやるであろうこと、になる。 場所の問題でいえば、「ここにいます」か「ここにいました」か「ここにいきます」である。行為の問題でいえば、「これをしました」か「これやってる途中です」か「これをします」である。

でも、何を入力しようが、つまるところその人が表明してしまうのは、「わたしはいま、このtwitterを入力できるだけの余裕があります」ということである。誰かとチャットをするほどの暇はないが、自分がやってることを打ち込むだけの隙がある。なんか、そういう隙が漏れてるメディアかな、と思いました。あくまで印象ですが。

twittervisionを見ると、世界は意外に隙だらけである。ついぼーっと見てしまう。

20070413

 午前中に原稿。午後から軽く大学の用事でも、と思ったが、新学期のこととて、面談やら緊急会議やらが振ってくる。Twitterに書いたのを抜粋するとこんな感じ。タイムスタンプ付きの行動録というところ。

夜はヒーターが必要な彦根。いまから自転車飛ばして帰る。 07:58 PM
会議と学生のPC接続直しでいままで。いまからさらに会議。 06:06 PM
学生面談。いまから会議。 02:49 PM
飯食った。会議勃発。あたふた。 02:15 PM
暖かいな。大学の中庭で録音。これからゴハン。 01:24 PM
茶店で原稿。二時間で5枚。あ、もう昼か。 12:01 PM
朝飯食ってメール返事。さて、ネットを切る。 09:05 AM


20070412

 ガビンさんに教えて貰ってtwitter。

 ゼミゼミ講義面談などなど。


20070411

 さっそく第一回の講義。大学院向けの比較行動学特論。まずは自己紹介をしてもらい、その内容から関連する話題を軽く振る。
 今年は健康栄養学専攻の受講生が多い。来週は、食行動研究のレヴューから入るか。

 夕方、松嶋さんと立ち話してたら2時間以上経っていた。洞窟知とディスコミュニケーション。知っている者は、いかに知らない者から教わるか。などなど。

かえるさんの日常露天掘り#2

 「かえるさんの日常露天掘り」#002。ARCAudioにをどうぞ。彦根でしゃがんで伊東の話。

録音機#003 ゴミの分別

A: 「あ、ぼくのも入れましょうか」
B: 「あ、ありがとうございます」
A: 「ええと、これ全部ですか?」
B: 「いえ、アルミとスチールに分けるんです」
A: 「これ、アルミかな?」(缶をひとつ手に取りながら)
B: 「あ、こういうところにアルミだと、アルミって書いてあるんですよ」
(缶のひとつを指さしながら)

(A:わたし、B:近所の人)

 朝、缶ゴミを捨てに行くと、同じ棟の人が籠に貯まった缶を足でつぶしてビニル袋に入れ直していた。子ども会の活動で、空き缶を回収してリサイクルに回しているんだそうだ。それで、わたしの持っていった缶もどうせならそこに入れようかと思ってとは言ったのだが、よく見ると、貯まった缶の中からいくつか選り分けておられる。それで冒頭の会話となった。

 なんということはないやりとりだが、日常における「分類」の学習場面としておもしろいなと思った。おそらく、クワガタムシの採集や、発掘現場での作業(Goodwinの研究を想起すること)などで、こうした分類のやりとりがしばしば起こっているのではないか。そのときに、「どうやって見分けるんですか」と分類法をダイレクトに聞く方法もあるが、この会話のように、
1: 類があるかどうかを聞く
2: 類別を教えられる
3: 目の前にあるものが、特定の類かどうかを聞く
というプロセスによって、いつのまにか分類法を身につけるということもあるだろう。
作業とカテゴライズ、というのをさまざまな場面で見る研究は、ジェスチャー分析でよくあるのだが、ゴミの分別というのはおもしろいフィールドかもしれない。認知分類学は、共時的な分類済みの類を扱うわけだが、そもそも類が伝播する現場を扱う学があってもよい。


20070410

 早朝、彦根に戻る。1回生から4回生までの各オリエンテーションに。ゼミ配属の手続きやらカリキュラム調整やらで日暮れまで。


20070409

 宇波くんと、かえる目の楽曲を練る。アルバムに入れるのは十数曲になりそう。アレンジのヒントを得るべく、うしろゆびさされ組から山崎ハコまで聞いてみたが、その結果、かえる目に不足しているのは、喜怒哀楽の直接表現とリズムチェンジであることが判明した。
 らんぶるでmapの小田さんと打ち合わせ。新譜リリースの話はいよいよ具体化してきた。


20070408

生物地理学会シンポジウム

 早朝、投票を済ませて東京へ。生物地理学会シンポジウム。内容は、三中さんの日記に詳しい。
 終了後、池袋で三中さん、田中さん、中村さんと飲む。図形言語リテラシーについて議論を深めるべきところだったが、「ギター小僧」という中村さんが第一に挙げたギタリストがデレク・ベイリーであったため、話は一気に聴覚リテラシーの話に傾斜する。

録音機#002

 A:「お客様前から失礼します、○○麺です:」
B:(麺を受け取ってすすり始める)
C:(伝票を裏返す)

(A,C: ラーメン屋の店員、B:わたし)

 夜半過ぎ、新宿歌舞伎町のラーメン屋。このラーメン屋は、カウンタから厨房が見える仕組みになっている。カウンタに向かうと、平台の向こう、顎の高さあたりに幅十センチの台がある。わたしの後ろから手が伸びてきて、その台にCが伝票を置く。こちらのパーソナルスペースが斜めに横切られたような、ちょっとした違和感を感じる。Cは中国系の女性らしく、注文を繰り返すことばがカタコトである。もしかしたら中国の人は日本の人とパーソナルスペースの感覚が違うのかもしれないな、などと考えつつカウンタの中を見ている。

 Aは寡黙に麺をゆで、丼にスープを注ぎ、ゆで終わった麺の湯を切っている。その切る手つきに、少しく力が入りすぎており、ああ疲れているのだなと思う。
 いよいよ麺が丼に入ったところで、てっきりCがそれを受け取って配膳するのかと思っていたら、A自身がぐいと身を乗り出し、「前から失礼します」と言ったので驚いた。しかも、さっきの湯切りの手つきからきっぱりと気分を切り替えた、思いがけない柔らかい声だったので、ああ、疲れていてもこの人はこうやって気を入れ直すのだなと感心したのだった。

 感心して麺をすすり始めると、目の前ににゅっと手が伸びてきて、無言で伝票を裏返した。ぎくっとしたが、すぐにCだとわかった。それで、麺を食べている自分の背中に、さっきまで伝票裏返しランプが点灯していたかのような、妙な気分になった。そして、わたしのことを、伝票を裏返す合図を出す動物として見ているCのことを、少し健気だと思った。


20070407

録音機#001

   いまから20年以上前、「言語生活」という、言語学を扱う月刊誌があって、その中の「録音機」(だっけな)というコラムを愛読していた。日常で小耳にはさんだ何気ない会話を取り上げて、短いコメントをつけるというもので、その短い切り取られ方のおかげで、文字媒体なのに、高性能の録音機が一瞬作動したような感じを受けたものだ。
 ときどき、街中で、あれ、と思うようなことばを聞いて、そのコラムのことを思い出す。今日もひとつ、そんなことばを聞いた。それで、どうせならこの日記につけてみようと思った次第。不定期掲載。

A:これ、230円か?
B:ふん

(A:レジを打つ子ども。中学生くらい?、B:女性。同じくレジに立ってパンを詰めている)

 ときどき行くパン屋のレジに、幼い顔立ちの子がいる。顔立ちのわりには妙に落ち着いた風情で、パンを受け取る仕草にも、不必要な愛想がなく、ごく事務的な応対をする。
 買ったパンを差し出したら、その子が、ふと、パンのひとつを見つめて、「これ230円か?」と語尾を上げて言ったので、ぼくは突然、タメ口をきかれたのかと思ってどきりとしたのだった。しかし、すぐあとに、横にいたオトナの女性が「ふん」と言ったので、ああ、彼女に言ったのか、と分かると同時に、二人は親子なのかな、と思ったのだった。

 Bの「ふん」という答えによって、ぼくは、Aの発語の宛先を知っただけでなく、そのある種ぞんざいな言い方から、二人の社会的関係を察したということになる。もちろん、ほんとうに親子かどうかは知らない。こういうとき、「ああ、親子だな」とカテゴライズする感覚は、Sacksの言う、メンバーシップカテゴリーの問題にも通じている。

やはり京都の桜を見ておこうと思い、夕暮れのアパートへ。ふくしまさんの部屋でものすごい桜を見ながらお茶。原稿を打って彦根に戻る。


20070406

 築港ARCのポッドキャスト、ARCAudioに、「かえるさんの日常露天掘り」のコラムを開始。今月のテーマは「しゃがんで見る花」。ARCAudioには、ほかにも、オニさん@あふりらんぼの連載も。  詳しくは、ARCAudioを。


20070405

 Garfinkel "Seeing Sociologically"。夕方、彦根用の墨と硯を買いに京都へ。楽器屋によって、譜面ソフト「Allegro」を買う。かえる目レパートリーの譜面化のため。帰ってから、譜面を入力し始めるが、あまりに細かいコマンドやモードの数々に苦闘する。


 

20070404

 さらに。
 いまごろ、HDレコーダーに撮っておいた「芋たこなんきん」を見る。題字の「芋」のくさかんむりが芋らしく、「た」「こ」の字がころころと転がるよう。最近、筆で書くことが多くなったせいか、字を見るとすぐに形のほうに反応してしまう。


20070403

 さまざまな仕事。


20070402

 夜、かんぽの宿で、両親、妹家族と食事。子どもたちは途中からコナンに釘付け。
 甥と風呂に入る。


20070401

 河内風穴探査。ぼくは二回目。二回目なのに、ほとんど経路がわからない。やはり洞窟の通り道を覚えるには、ふだんの街中とはまったく違う認知を使わなくてはならない。植物も人工物もないので、岩や穴の形状(それもヘッドライトに照らされる部分的なもの)に手がかりを見いだす必要がある。小山田さんはすいすいと前を行くのだが、解説を聞いていると、彼がいかに岩のディティールに知識を行き届かせているかがわかる。夕方終了。


 
 

to the Beach diary