時間表目次


年号
小川一眞事項
写真関係
備考
現、埼玉県行田市にて藩士原田庄左衛門の次男として出生。幼名朝之助。
武州行田藩士小川石太郎の養子となる。一眞と改名。
藩校培根堂就学。
横山松三郎、「上野東照宮」(鶏卵四つ切)「徳川亀之助」(鶏卵八つ切)を撮影。
横山松三郎、「江戸城本丸一部(双眼写真)」「写真器械指物師佐々木吉五郎(漆紙写真)」を撮影。
浅沼藤吉、日本橋で写真材料取扱開始。江崎礼二、芝日陰町で写真業を開く。徳川慶喜、三井高福、山内容堂ら、浅沼藤吉の顧客に。
浅草奥山花屋敷で西洋画の覗きからくり。
上京後、有馬学校入学。英国人教師から写真術を教わる。
横山松三郎、宝物取調掛嘱託を拝命、古美術品撮影に従事。
名古屋の宮下守雄、ダゲレオタイプによる双眼写真を撮影。
手島精一、アメリカよりマジックランタン一式を将来、幻燈となづけて広く紹介。
有馬学校卒業。熊谷吉原秀雄写場で湿版法写真術会得。
上州富岡に写真館開く(2)。

マイブリッジ、馬の歩行の瞬間写真撮影。
上京、築地バラ学校入学。
高田千代吉、双眼写真を作る
第二回内国博に(「上野国北甘楽郡中の獄景」カーボン印画)出品(3)。
写真業を廃業し、横浜警察署英語通訳となる。ついでアメリカ艦隊Swatara乗員となり渡米(6)。アメリカから、横浜の下岡太郎次郎(蓮杖の養子・写真師ハッサリー方技師)に乾板を贈る。太郎次郎、これを父蓮杖に呈し、蓮杖さらにこれを江崎礼二に与える。(明治写真家コネクション)
ボストンの写真師リッヅ(E. F. Ritz)、ハスチング(G. H. Hastings)について写真術を研究。
江崎礼二、乾板撮影に成功。
帰国、横浜で乾板製造に着手、失敗(10)。
横山松三郎没(10.15)。江崎礼二、浅草小学校生徒などを早取写真で撮影。江崎礼二、月食を撮影。吉田勝之助、浅沼藤吉のもとで乾板製造に着手。
東京飯田町に写場「玉潤館」開設(10)。米国式逆光線写真及びプラチナ写真を製作。appointed an instructor in photography at the Imperial Military Academy (by Fox).
江崎礼二、上野不忍池で花火撮影に成功(5.1)。
浅草水族館開館(10)六区のもの(四区とは別)。
日光東照宮の内部撮影を委嘱され、銀紙の反射光利用を工夫。
(米)トッド博士らの日蝕観測団に参加し新方法で撮影、バルトンと出会う。於会津白河(8.19)。マグネシウムによる閃光撮影を試みる。東京府工芸博覧会審査員となる。またその出品画に最高賞牌を受ける。

バルトン、永井久一郎(荷風の父)の知己をきっかけに衛生技師として来日(5)、コレラ禍対策の下水道事業に参加。江崎礼二、宇都宮八幡山で日蝕撮影(トッドらと別)。
浅草富士(11)。
図書頭九鬼隆一の美術品取り調べに随行し近畿地方社寺の古美術品を収集(12)。バルトン・鹿嶋政之助(清兵衛)らと築地乾板製造所を設立。簡易式コーティングマシンを考案、コロタイプ写真製版に成功。
吉原秀雄、浅草・神田・京橋・日本橋で磐梯山噴火写真幻燈会を開催。料金十銭(8.3ー10)
一眞編「写真新報」創刊・同人(2)。覚三岡倉天心と国華社を設立。美術写真雑誌「国華」創刊(10)。コロタイプ製版印刷所を京橋日吉町に創業。
玉潤館を開き写真製版を開始(1)。第三回内国博に「富岳の景」出品(白金印画、一等有功賞・時事新報金牌)、「フォトタイプ写真版(一等妙技賞)」「アリスト紙使用法」訳。万国博覧会商議員を委嘱される。妻市子没(6)。
建築中のニコライ堂より見た東京市街パノラマ寫眞」バルトンか?(長さ5m、田中武説も)。鹿嶋清兵衛、上野で軽気球に搭乗し、空中早取撮影を試みる。
鴎外「舞姫」のパノラマ・塔的描写(1)。上野、浅草にパノラマ館(5)。浅草凌雲閣開場(11.11)。風船乗りスペンサー、横浜で演技、菊五郎がこれを鑑賞。(10.19)。スペンサー皇居前で演技(11.12)、十二階と風船のイメージが結合。岡倉天心、東京美術学校校長に就任。
凌雲閣の百美人写真撮影を開始(6)、公開(7.15)。10月に一等美人選定。大垣の写真師好美館高岡某・バルトンとともに濃尾大地震を撮影(11)。「菊花」「松島」。京城(韓国)に視点を開設。
「美人帖」江木商店100枚6円他各種。バルトン「近世写真術」石井八万次郎訳。
バルトン・ミルン共著の「日本の大地震」に写真版の挿画を提供。「東京市街の写真」折本仕立。「東海道」「函根」写真によるツーリズムの先駆けか?。「老夫婦」バルトンに激賞される。
凌雲閣で古今美人画展(2)。
評議員としてシカゴ万博に渡米。シカゴ万博でメダル授与。凌雲閣で自ら撮影したシカゴ博覧会風景を幻燈・ジオラマにより展覧(9)。バルトン、ウエスト、ミルンとともに三浦岬で水底写真撮影実験を試み失敗。フォーゲル=ヘルマン「光線並写真化学」訳。岡倉覚三「宝殿」写真担当。大日本写真品評会の結成にバルトンらとともに参加(斡旋:鹿嶋清兵衛)。
上野公園桜雲台で小西六右衛門・浅沼藤吉発起によるバルトン慰労会(4.30)。下岡太郎次郎、アメリカで客死(9)。江崎礼二、3年間に来館した子供1700人のポートレートをコラージュして広告。
凌雲閣で日本百景ジオラマ(4)。塔とツーリズムのイメージ結合
写真銅板印刷技術をアメリカから輸入。「聞く所によれば、小川氏は自らこれを携へて、博文館に其の採用方を慫慂(#しょうよう)するや、同館は日清戦争實記の口繪として、先づ此の製版を利用するに決し、其の一切を小川氏に託して遂に無前の効果を擧ぐるに至つたものであると云ふ。」(木村小舟「明治少年文学史」第三巻) 一眞「戦争写真帖」(海戦の部)。
バルトン、日本写真会常会に自製感光計を出品(9)。「戦国写真画報」(博文館)創刊(10)。「日清写真帖」竹内拙三(11)。「平壌陥落写真石版画帖」報行社(12)。日本幻燈会設立(12)。写真月報(小西本店)創刊。写真による戦争イメージの増殖
凌雲閣で日清戦争油絵、日本絵百美人画、尾形月耕(10)。
「太陽」創刊号巻頭に内閣閣僚の写真銅版(1)。自由新聞主陸地測量部撮影「日清戦争写真石版」発行(1,4,5)さまざまな大きさのバージョンあり。宰写真師人気投票発表で1位・鈴木真一、2位・小川一眞、3位・鹿嶋清兵衛(10.20)。王立写真協会名誉会員に推薦される。樋口宰蔵撮影「日清戦争写真帖」発行。日吉町写真製版所火災。
第4回内国博(京都)に双鏡暗函、十二鏡暗函。バルトン著「写真新書」石川巌訳。日清戦争の召集に際して記念撮影をする者続出。
一葉「たけくらべ」、「幻燈にしないか幻燈に」。凌雲閣のジオラマを日清戦争に。
島田清兵衛とともに北海道で日蝕を撮影(8)。ゲオルグ=イツェロット・フランツ=ニーマン共著「細菌顕微鏡写真図解」の写真複写担当。「標本写真帖」発刊(11)。写真新報終刊(9)、浅沼藤吉によって再発刊(11)。「写真月報」に日本初の彩色画複製掲載、クルツの3色版法(6)。
ヴァイタスコープを荒木和一が輸入、福岡鉄工所で試写、活動写真と命名。バルトン、拓殖務省の依嘱で台湾に渡り、土木工事設計のかたわら風景・風俗を撮影。
太陽2-7にパノラマ叢話、X線解説、サイクロラマの記事。膜面をめぐる描写、透過、投射のイメージの並列。
写真館紅葉館開業、館主となる(10.11)。
浅草花屋敷でエジソンのキネトスコープ興行(2.11)。リュミエール社のエレール来日(2)。大阪でシネマトグラフ興行(2)。神田錦輝館で「電気活動大写真会」を興行(3.5)。
「明治30年秋季大機動演習写真帖(九州久留米付近)」(2)。「第9回赤十字総会写真帖」(11)。営業税額、小西本店175円、浅沼商店112円66銭に続き84円70銭で東京第三位に。
X線写真用感剤として乾板代用に臭素紙盛んに使われる。
バルトン死去46才(8.5)。
東大の依嘱で北清事変後の「北京宮城」「万寿山離宮」を撮影。
子規「仰臥漫録」に「双眼写真の見やう」のはしりがき。
独歩「武蔵野」。
妻花子没(3)。陸地測量部撮影「明治34年秋季陸軍大演習(福島県)写真帖」小川写真製版所(3)。
「太陽」懸賞写真の募集開始、アマチュア写真家時代のあけぼの(1)。浅沼、鶴渕初蔵、熊本県の陸軍特別大円周の実況を活動写真器、パノラマ手提暗函などで撮影(11.10−14)。
逓信省が万国郵便条約二十五周年記念葉書を発行(網目銅版一色)、官制絵はがきの嚆矢。
第5回内国博(大阪)に百美人写真画を出品(4)。
日本活動写真会、歌舞伎座で着色活動写真を上映(6)。浅草公園に活動写真館「電気館」(10)。
近時画報創刊(独歩主宰)翌年から「戦時画報」と改題。
日露戦争開戦と同時に「戦役に関する戦地写真の製版・印刷・発行の業務を嘱託」される。戦争イメージ拡大のキーパーソンとしての一眞。門下生が送る未現像写真の現像・密着焼を担当。門人の江南信国(実業之日本の従軍写真師)第二軍に従軍。大本営写真班撮影「日露戦没写真帖第1ー3」小川一眞出版部。
田山花袋、第二軍私設写真班として日露戦争に従軍(3)。市岡太次郎、風船により戦場撮影。従軍将兵の慰問用品として美人写真の絵葉書、大いに売れる。報知新聞、写真版を活字面に刷り込むことに成功。
花袋、「第二軍従軍記」戦争のパノラマ化。日露戦争に従軍戦況写真が軍から流れ、一半を出征兵士に送られ一半が郵便局に売却され、郵便局発行の絵はがきを人々は争って買った(近藤出版社「通信」)戦争の絵はがき化
板垣退助三女婉子と再婚。
上野公園五号館で「日露戦役彩色大写真展覧会」、3×6尺の戦場大画面(4)。市岡太次郎編「日露戦没海軍写真帖第1巻」小川一眞出版部(4)。市岡太次郎編「日露戦没紀念帝国海軍写真帖第2輯」小川一眞出版部(5)。市岡太次郎編「日露戦没海軍写真帖第3巻」小川一眞出版部(6)。「日露戦没写真帖」小川一眞出版部(12)。青山練兵場の凱旋記念大観兵式御閲兵中の天皇を謹写。
漱石「猫」。
「清国北京皇城写真帖」刊行。浅沼らと日本乾板株式会社発足、やがて解散。「明治39年5月靖国神社臨時大祭写真帖」発刊(9)。
写真画報(博文館)創刊(1)。
藤村「破戒」。


「京都綿子ル株式会社」創業10周年紀念写真帖、撮影発刊(11)。
時事新報募集美人写真の当選決まる、ミス日本の嚆矢?(2.29)。デパート最初の写真室が三越に。東京眼鏡商報創刊。「東京写真帖」花袋編。紀行文家=写真の解説者としての花袋。
写真新報に柏崎からX音波を束ってウラジオストックを、直江津から京城を歩行する韓人を撮影したとの報告。まなざしの遠隔化のイメージ
花袋「蒲団」。
陸地測量部撮影「明治40年秋季陸軍大演習写真帖」小川写真製版所(6)。
池田如水「蚕之一生写真図譜」(昆虫写真草分け?)(7)。
「あまちゅあ写真誌」創刊(大阪アマチュア写真倶楽部)(8)。
二六新聞、京浜の営業家及び素人写真家の人気投票、「素人」の誕生?
銀座の化粧品店城ボタン、評判の髪結による結髪写真60余種を飾る。美人のサンプル化.
浅草公園に露天の写真屋(ガラス撮り)。
イタリーの三等勲章を受章。「故伊藤公爵国葬写真帖」撮影・発行。
凌雲閣から飛び降り自殺、男は直前に上野博品館で記念撮影(1)。自殺と記念。東京天文台、ハレー彗星を撮影(11.12−13)。
東京写真師同業組合第一回総会で組長を勤める(4.4)。間綬褒章受章(6.11)。陸地測量部撮影「明治42年秋季陸軍大演習写真帖」小川写真製版所(8)。元統監府編「日韓併合紀念大日本帝国朝鮮写真帖」(8)。帝室技芸員に任命される(10.18)。日本風景風俗写真帖(11)。フランス・アカデミー勲章を受章。
江崎礼二没(1)。
東京風景(4)。本邸別邸を引き払い日吉町に移。転。
千里眼の長尾いく子、盗まれた実験フィルムを念写でつきとめる(1.13)。まなざしの遠隔化のイメージ。中村清二、パノラマカメラについて特許を得る。
民間の御大葬鹵(ろ)簿謹写団組織、代表となる(9)。
「御大葬儀写真帖」撮影出版(10)。
高田千代吉(双眼写真製造舗)死す(5.21)。軍事画報創刊
キネトフォン輸入される。凌雲閣「相変わらず百美人の古びた写真が掲げられている」(読売4.7)。
スエーデンのワザ第三等勲章を受章。日本乾板解散、小川写真化学研究所として乾板製造研究を続行。
日本初の少年写真団体「ミニマム写真会」。
宮内省御用掛を拝命(1)。
上野で大正博(3)。
御真影を奉写(6.29)。
東京美術学校に臨時写真科設置(2.20)。
正七位。
白秋の弟北原鉄雄、アルスの前身和蘭陀書房から三宅克己「写真のうつし方」を発刊。
写真業廃業披露(乾板製造に専念と表明)(10)。
美術写真画報創刊(1)。
従六位。
関東大震災で自宅と工場を被災(9)。
ニエプス氏写真百年祭で講演。
妻婉子没(4)。
アサヒカメラに「史料小川一眞翁経歴談」連載(10−3)。
七十歳で没(9)。


主要参考資料:
「日本写真史年表 1778-1975.9」日本写真協会編/講談社/1976
「日本写真史 1840-1945」日本写真協会編/平凡社/1971
「写真界の先覚小川一眞の生涯」小澤清/近代文藝社/1994
「K. Ogawa (1860-1929) Premier Photographer (I)(II)」The Japan Times /Jan 4, Jan 11, 1987
「明治人物辞典」日本図書センター(明治33年発行のものの復刻)
「元祖玉乗曲藝大一座」阿久根巌/ありな書房/1994

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