維新派「呼吸機械」さいかち浜 野外特設劇場 <びわ湖水上舞台>

20081010

*注意:以下、公演内容に触れています。これから行く人は、行った後にどうぞ。






 6:30に会場に着くと、もうあたりは暗がりで、舞台に入ると、水平線の向こうにわずかに船の灯りが見えるのだが、客席が明るく照らされているので、向こうに広がっているのが湖なのか、それとも舞台が果てしなく広がっているのかがわからない。
 その、水面とも舞台ともつかぬ光景が広がっているのを見て、もうこの場所に来たかいはあったという気がした。

 始まった物語の筋立ては、必ずしもわかりやすいものではない。
 そこは戦前の東欧のある場所らしい。
 子どもの中の二人は、カインとアベルと呼び合っている。ということは、これはカインとアベルの兄弟殺しの物語なのだろう。
 ポーランドの戦前戦後のイメージを表すべく、見たことのあるポーランド映画の場面が舞台の上に再現される。ナチ侵攻後のワルシャワの廃墟は『戦場のピアニスト』かもしれないし、目撃者のように唐突に現れる巨大な男は、キシェロフスキのデカローグに毎回登場する男を思い出させる。一人の犯人を集団の輪が追い詰めて、そして輪が解かれると犯人が死んでいるのは、『夜行列車』かもしれない。終盤近く、暗殺者が相手を抱きかかえるとともに花火があがるのは、明らかに『灰とダイヤモンド』だろう(あの映画のシーンが、舞台のスケールになると、こんな風に見えるのかと、ここはおおいに感じ入った)。

 これらのイメージに加え、ハーケンクロイツ入りの汽車が闖入し、アウシュヴィッツを思わせる釜を前に、晩餐のカーニバルが執り行われるのだから、これはもう、ポーランドのユダヤ人の話なのだが、なにしろ台詞らしい台詞はなく、登場人物は子どもとして現れたり大人として現れたりして、名前を呼び合うときにようやく、ああ、この人物がカインなのかと分かるので、はっきり筋の通った物語を見ている感じはせず、むしろ、時代を前後する貼り混ぜ屏風を見るようだった。

カタカナを読む

 わたしは、日本維新派が維新派となって以降、長らくその劇を見ていなかったが、その原因の一つに、ラップ調のことばがある。『echo』あたりから使われ始めた「ガリガリ」「ズンズン」といった、かたくなな擬音や擬態語を律儀に発声するコーラスが、以前はなんとも気恥ずかしく、いたたまれない感じで、それからしばらく足が遠のいた。内橋さんの作る曲や演奏は聴きどころがたくさんあって、こう来たかと思うところも多々あるのだが、あのラップが乗ると、どうも受け付けなかった。
 『ノスタルジア』や中上健次を題材にした『南風』を見に行き、そのときは生バンドで作っていく音楽のグルーブにぐいぐいと惹きつけられ、違和感は和らいだ気がしたものの、あいかわらず、全員が声を揃えて何かを言い出すのを聞きつづけるのは苦手だった。

 今回の場合も、全員が唱和する場面に対する違和感は相変わらずだった。
 しかし、寄る年波を経て、自分の好みを横に置くことができるようになったせいだろうか、これはこれで、いろいろと考えさせられた。

 丸窓、アーチ、アーケード。クランク、アーム、のばして。カタカナのことばが和語とともに並べられ、大阪弁のイントネーションをまとって、あくまでも日本語の鈍重な音として発声される。それを聞きながら、ああ、新しい街、新しい機械を得るときに、確かにこんな風にことばを唱えながら、その街や機械の持っている体系に自分は接してきたな、と思う。カタカナは、咀嚼できない概念を、発声することで無理からに呑み込むための音であり、その、喉にひっかかる音こそが、目の前の街や機械の新しさを示しており、だから、そのひっかかりを、まるで炭酸が口内を刺激することを選ぶように、好んで摂取するようになった。もしかすると、維新派のラップに対する違和感は、自分が行ってきたそうした無自覚の摂取に対する違和感なのではないか。

 この劇では、東欧の地名が次々と連呼される場面がある。グダニスク、クラクフ、ブダペスト、プラハ、ワルシャワ、ワルシャワ! 日本語のモーラにのせた、鈍重なラップで、異国の地名がお経のように唱えられる。東欧の土地の名を呼ぶたびに呼び覚まされる異郷へのあこがれは、グダニスクのグダ、クラクフのクフ、ブダペストのブダ、プラハのラハから来る。そこには、現地の発音が日本語に変換されたときに起こる、人のことばにはない不自然なひっかかりが含まれており、そのひっかかりの集積が、まだ見ぬ「東欧」のイメージを膨らませる。じつは、わたしたちのイメージする「東欧」はこうした土地の名前から来るのではないか、とさえ思わせる。

 ラップ、と便宜上呼んでいるが、維新派のこのコーラスは、ラップというよりも、群読に近いなと思う。群読というのは、小学校で「卒業!卒業!」とやる、あの呼びかけの形式のことである。
 維新派の劇で唱えられている土地の名前は、現地の人から、生の発音を聞いて捉えられた音ではない。一度カタカナとしてテキスト化された音が、読み上げられた音なのだ。もちろん役者は、それを、テキストを見ながらではなく、暗唱しているのだが、それはあくまで暗唱であって、台詞ではない。
 ラップが、歌から発話へのシフトであるとすれば、維新派の発声は、発話から読むことへのシフトである、と言えるのではないだろうか。

 わたしたちは、テキストを読み、テキストを介して、新しさに触れてきた。
 アナウンサーが、IMFを「アイエムエフ」と読み、さらに「国際通貨基金」と言い直す。異国のことばは、読み上げられることで、カタカナとなり、その意味を与えられる。
 しかし、名前が唱えられるとき、それを翻訳することはできない。グダニスクはグダニスクと呼ぶしかなく、そこに付け加えられる意味はない。聞く者はグダでニスクな音のひっかかりを、そのまま受け入れるしかない。人の名前、土地の名前は、翻訳不可能な音だ。それらは、呑み込むしかない。
 いや、じつを言えば、事物の名前すら、はっきりと翻訳されるわけではない。機械のアームはアームであり、腕とは違う。デスクトップはデスクトップであり、机上と言ったのでは通らない。むしろ、日本語の意味から遠ざかり、カタカナで呼び習わすことで、わたしたちは街や機械を受け入れてきた。ものの名前がカタカナ化されたときのひっかかりを、白米よりも玄米を好むように日本人は咀嚼し、そこに新たな文化を感じ、そのような音の横溢する場所に住み慣れてきた。

 異国のものの名前が持つひっかかりは、ズンズン、カチカチといった、重たさ、硬さのもたらすひっかかりや違和感と重なり、まるで擬音や擬態語のように、摂取されてきた。維新派の舞台の上で、少年少女たちは、まるで新しいオモチャを見つけたかのようにカタカナに飛びつき、カタカナを読み上げ、機械のように痙攣し、ますますその読み上げは調子づく。

 その光景に、わたしが微かな嫌悪を覚えるのは、おそらく、それが自分の取り巻いているカタカナ、そしてカタカナによってもたらされている生活を、鏡に映したものだからなのだろう。

人間の小ささ

 それにしても、何より、心動かされたのは、舞台の大きさ、そして舞台の大きさの使い方だ。

 終盤、暗殺の悲劇の直後、舞台にじわじわと水が染みだしてきて、やがて水浸しになった舞台と湖がつながってしまう。水没する街。それを見て、なぜか「崖の上のポニョ」を思い出し、不思議な符丁を感じた。
 おそらくこの舞台の準備が始まったのはポニョの公開前のはずで、ポニョが参照されているはずもない。が、少年少女たちが水浸しの舞台の上にあおむけになり、足をばたつかせて水を蹴立てるその光景は、まさしく波のイキモノ化であり、それは、ポニョが波に乗ってやってくるときの、あのイキモノ化した波を思い起こさせる。その波と化した役者たちの沖へと、登場人物が進んでいくと、遠ざかっていく人物の遠近は、そのまま、イキモノ化した波の遠近に重なり、寝そべりながら膝をがくがくとばたつかせる役者たちの、波のひとつひとつの生成が動作の生成に重なり、ここで生きているのは誰なのかと、めまいがしそうだった。

 数十人の役者を遠近に配置することで、数十メートルはあるかと思われる舞台の奥行きがいっぱいに使われる。手前に目撃者がいて、遠く、浜辺で惨劇が起こり、遁走劇が起こる。人の小ささ、激しい水しぶきが上がる音の遠さが際立ち、ああ、人はこんなに小さいのだと思わせる。近くで踊っているときは、激しい呼吸で上がり下がりする肩まで判るのに、濡れ鼠になって踊る役者の体の寒さが伝わってくるほどなのに、浜に出てしまうと、人は、もうどうしようもなく遠い。水際から水に踏み出してしまった人は、もうこの世の人ではない。そういう、人間の小ささが、見る者に迫ってくる。

 その小ささは、トランクを下げた巨大な男の登場によって、いっそう際立つ(人の三倍はありそうなその大男は、軽々と走って見る者を驚かせる)。もしかすると、この大男の大きさこそ、世界の大きさなのではないか。人間は、自分の生活を尊大に誤解しているだけで、本当はとてつもなく小さいのではないか。

  浜辺に巨大な月が落ちる。汽車が割り込む。窓越しに見る。船が過ぎる。舞台から浜辺へと続く水の中で、人の小ささが測られてゆく。
 自分の大きさを把握するための、新しいスケールが、ここにはある。じつは見ながらいちばん感じ入ったのは、そのことだった。

to the Beach diary