明治大正絵葉書記事拾い読み

(その1)

絵葉書着色業

細馬宏通



明治の手彩色絵葉書の見事さを見るたびに、これを塗った女工の苦労はいかばかりだったかを想像してしまう。浮世絵のぼかしに通じる青空や夕焼けの微妙なグラデーション、群衆の着物の柄から点ほどの花々のひとつひとつに至るまで筆を行き届かせるその作業は、さぞかし根気と忍耐を必要としたのではないだろうか。

その着色業に関する記事をいくつか見つけたので挙げてみよう。
まず、その女工の給料を記してある記事。

絵葉書の流行しますので之を着色するのも宣い手間賃になります。上田屋書店の計りでも女工一人に付一ヶ月十円位になるさうで牛込新小川町三の十四渡邊翠渓(すいけい)方で昨今女工を募つております。(読売/明治38.5.24)

一ヶ月十円という値段については明治三八年、日露戦争時の絵葉書ブームという時代背景、そしてそれゆえの過酷な労働量も考慮に入れるべきだろう。ちなみに、漱石の「坊ちゃん」(明治三九年)が東京に戻って就いた街鉄の技手の月給が二十五円、家賃は六円という時代である。
ところで、この記事にある渡邊翠渓は、「宝石入絵葉書」という以下の記事の中にも登場している。職業名は「絵葉書着色業」である。

先月より今月の初旬へ掛け悄(やや)沈滞の気味であつた絵葉書も今日此頃学生の徐々上京するにつれ又も色めき渡つて来た。デ売れ行きの何うかと云に高価の物が捌口宜しく金銀泥の物より今は西洋の宝石入をも倣ふ様になつたがしかしニスや糊などで附着するのだから剥易く買手からも苦情を申し込む向きも多いさうで牛込新小川町絵葉書着色業渡邊方で目下之が研究中。(読売/明治38.8.23)

これらの記事から、当時は「絵葉書着色業」という絵葉書の着色を専門に行う職業があったこと、そしてこうした着色業は、単に色を塗るだけでなく、ニスや糊などを用いてさまざまなものを附着させるといった、いわば絵葉書の加工仕上げ全般を扱う場合があったことも分かってくる。

さて、絵葉書の彩色、というとつい女工さんを思い浮かべてしまうが、じっさいには「絵葉書の色着(いろつけ)に就て(コドモノシンブン)」という以下の記事に見られるように、少年少女の奉公先としてもすすめられることがあった。

前の子供新聞に「自ら働いて貯めよ」とお勧めすると同時に少年に適当なる仕事として絵葉書の色つけを御紹介しました処が方々の少年少女方が是非一ツ試みたいから着(いろ)つけをさせる絵葉書屋を知らせて呉れいと云御照会が毎日数十通づつ来ます。記者の方でもお勧め致した甲斐があつてまことに嬉しく思ひます。(読売/明治42.11.28)


 同じ記事の後半には当時着色絵葉書を発行していた東京市内の絵葉書屋の数、および主な絵葉書屋の名前が記されていて興味深い。また「大抵は着色に出しますし」という表現があって、大手の絵葉書屋では、一般に着色業者に委託していたことが示唆されている。その部分を挙げておこう。

着色(いろつけ)絵葉書を出す家(うち)は十ヶ所二十ヶ所ではない。大抵各区に五六ヶ所位はあります。其の内主なるもの五六ヶ所を左に掲げます。諸君も最寄りの大きい絵葉書屋で聞いて御覧なさい。大抵は着色に出しますし出さないにしたところが着色の方法や絵の具の種類も教へて呉れるし又何処で出すか位の事は同業者であるから大概は知つて居ります。

神田区仲町一の一六     浪花屋
京橋区銀座三の一        上方屋
神田区裏神保町        上方屋
同南乗物町            青雲堂
同表神保町            泰文社
同所                上山商店
日本橋区通二の一三        松聲堂
芝区琴平町三            丸木屋
(読売/明治42.11.28)


(*引用文では、旧漢字の一部を改め、当て字の一部をひらがなにしてある。また、読みやすいように一部に句読点を足してある。正確な表記を求める方は原文を当たることをお勧めする。)


20030809



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