戦時下の「詩」 ー木下杢太郎の描いた花ー

「新編 百花譜百選」木下杢太郎画 前川誠郎編(岩波文庫)
   「食後の歌」木下杢太郎(日本図書センター)

 木下杢太郎、本名太田正雄(1885-1945)の活動をひとことでまとめるのは難しい。明治四十年代には北原白秋や吉井勇らとともにパンの会を結成し、絢爛たる語句を用いた象徴詩を多く書いた。やがて、旺盛な執筆活動は小説や戯曲にも及ぶようになり、大正後期になると、その興味は中国石仏研究や切支丹研究へと移っていった。  医学者太田正雄としては、水虫から白癬菌を分離したことや、ハンセン病の感染力の弱さを指摘したことで知られている。一九三七年(昭和十二年)には東京帝大医学部教授となり、小石川植物園に隣接した伝染病研究所に研究室を設け、太平洋戦争を経て終戦の年に亡くなるまで勤めた。

 杢太郎の作品の底流には、詩作のタイトルにもなっている「異国情調」がある。
 異国情調とは、表面的には、異国文化へのあこがれのことだ。が、その底には距離に対する感情があり、その距離ゆえに生まれる対象への執着の感情がある。
 杢太郎の詩には、単なるエキゾチズムではなく、触れられることなく枯れ、腐敗し、朽ちていく対象を、距離をおいて眺める時間が流れていることがある。
 「この紙入は/土用干しの箪笥からころげ出た/鼠羅紗の紙入。/中には古い書付が/ももくちやになつて入つてゐるさうな/(中略)/中も開かでまた入れて置け、/いづれ腐る日が/あるだらう、鼠羅紗の紙入/」(「紙入」明治四三年)

 距離の感覚は、自作との関係にも表れた。
 主として明治四〇年代に作られた詩歌は、大正七年にようやく「食後の歌」としてまとめられたが、そのときの杢太郎は、もはやかつての精力的な詩作からは距離を置いていた。「食後の歌」の自序は、東京ステーションホテルの一室で書かれている。「今、午前、予は停車場ホテルの窓から、初秋の空気遠近法を見せたる、繁錯なる市街の屋根の海を眺めてゐる。そして独りで腹立たしく叫んだ。何だつて二年前と今と、こんなに萬事が変つてるんだいと。」
 「二年前」から、彼は奉天病院長として満州に赴任しており、このときは一時帰国の途上だった。
 その後も、杢太郎の生活はあわただしく変転する。奉天から欧米留学、愛知医科大、東北帝大、南方、そして東京帝大へ。その間に、関東大震災があり、震災復興に尽くした実兄太田圓三の自殺があった。本業の医学とさまざまなできごととの間を往復する日々の中で、自他に対する距離の感覚は、いっそう深くなっていったに違いない。「ああわたくしは遠く旅し、多くを看た。/そしていつもひとり片隅に坐って/物寂しく自分を眺める。」(「傍観者」大正十年〜十一年)

 杢太郎が終生こだわり続けたものの中に、絵画がある。
 杢太郎が十代の頃、日本はちょうど浅井忠らを中心とする水彩画ブームの最中だった。杢太郎は、水彩画家として著名だった三宅克己に師事し、学生時代には、自ら水彩画のクラブを起ち上げた。医科に進んだ後も絵を諦めたわけではなく、大正九年には、木村荘八とともに中国の大同石仏寺を取材し、石仏写生をはじめとする多くのスケッチを残している。

 杢太郎の「百花譜」とは、彼の晩年、時局が押し詰まりつつあった一九四三年(昭和十八年)三月十日から、癌で入院する直前の一九四五年(昭和二十年)七月十日までのあいだに描かれた、水彩による植物の写生画を指す。
 その数、八百七十二点。尋常な枚数ではない。
 「百花譜」は、東京大空襲を含む何度かの中断を除いて、ほとんど毎夜のように描かれ、一日に二十枚以上描かれることもあった。
 今回の岩波文庫の復刻は、膨大なスケッチの中から選ばれた百枚を、年代順に並べた体裁になっている。落ち着いた手触りの紙上にカラー印刷が為されており、絵のディティールがうかがえる。簡単な日記文が添えられており、当時の状況も伝わってくる。コンパクトながら愛すべき画文集だ。
 絵はいわゆる画用紙ではなく、文書用の罫線付き洋紙に描かれている。洋罫紙が使われたのは、物資不足の時代だったからかもしれない。が、この罫線は、百花譜に独特の形式を与えている。
 たとえば、等間隔に引かれた線のおかげで、絵には一定のスケール感が生じている。画面のあちこちに描かれた花や葉の大きさが、罫線の幅によって比較され、対応づけられて見える。そのせいか、画面からは分析的な雰囲気が漂ってくる。各部の構造の関係、その微細な色合いを写す筆致の確かさも相まって、まるで植物図鑑と思わせるほどだ。
 しかし、いっぽうで、罫線は図鑑とは異なる性質ももたらしている。
 それは、罫線枠の存在だ。選ばれた百枚の絵をめくっていくと、杢太郎が日を追うに従って、罫線枠をフレームとみなし、あたかも窓から見るような構図に仕立てていった跡がうかがえる。最初の頃は枠をはみ出すように描かれていたのが、後期になると、枠線で絵が断ち切られるようになる。蔦や芝のように、蔓や枝の伸び方に特徴のある植物を描くとき、そのレイアウトはぐっと大胆になり、アールヌーヴォーの装飾さながら、紙に大きな余白を残し、日記本文を囲む形をとっている。きわめて絵画的な趣向だ。
 罫線とは別に、「百花譜」には図鑑と決定的に異なる点がある。
 もし図鑑であれば、花弁や葉はできるだけ、折れの少ないものが選ばれ、一つの種を代表するように、その形が見る者の前に展(#ひろ)げ置かれることだろう。しかし、「百花譜」に収められた植物では、むしろ花弁の折れ曲がり、葉の歪みや斑、茎の屈曲など、細かい個体差が丹念に写されており、種の代表というよりは、あくまで一枝の存在として描かれている。
 中には、手折られたせいか、水分の充実を失って、微かに張りの緩んだ花葉もある。杢太郎はその様を、そのまま描いている。が、単に生の失われた植物の絵ではない。むしろ、目の前の植物が枯れ、朽ちていく時間が、淡い水彩の筆運びから生々しく伝わってくるかのようだ。枯れること、朽ちることが、写生の時間に重なり、生きられている。
 かつて、杢太郎は、次のような詩を書いたこともある。
 「瓶にさいた青い花、/ふびんだけれども、根なし草は枯れる。/今更にどうせうぞ。」(「根なし草」大正四年)
 「どうせうぞ」と哀れむかわりに、晩年の杢太郎は絵筆をとった。枯れんとする時間を、水彩の筆が罫線を掃いてなぞっていく。距離と執着の感覚が、「百花譜」では描く時間として生き直されている。それは、杢太郎の新しい詩だったと言えるかもしれない。

(評:細馬宏通「東京人」2007年7月号 p148-149)

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