針先と指先

大谷能生『貧しい音楽』
北里義之『サウンド・アナトミア』

 十代の学生たちに、今は使われていない昔の生活用品について聞き取りをしなさい、という課題を出したら、お祖母さんに話を聞いた、という学生からこんなレポートが返ってきた。
「音楽についてですが、LPレコードが主流だったそうです。針をのせるとレコードが回って音が出るそうです。」
 この無垢な文だけでも十分衝撃だったが、さらに、とどめのひとことが添えられていた。
「裏面もあったそうです。」
 十代の学生にとっては、二十世紀を席巻したテクノロジーも、遠い過去の遺物らしい。
 もはや、レコードということば自体を一から説明する時代が来たのだろうか。いや、「東京人」の読者なら、「A面」から「B面」へと音盤を裏返した経験があるに違いないと信じて、今月はレコードの針先を論じる本の紹介から始めよう。

 音楽活動を行う一方で、ジャズ、電子音楽史に関する数々の共著を著している大谷能生が、昨年末、『貧しい音楽』を出した。自身の文章と、ミュージシャンたちへのインタビューを通して、録音時代の音楽を捉え直そうとする意欲作だ。
 『貧しい音楽』は、「デューク・エリントン楽団とのレコード制作」という、1937年に制作された短編フィルムの話から始まる。
 著者は、サー・デュークの軽快な演奏がレコードに刻まれていくまでの行程を丁寧に記したあとで、こんな風に書く。
 「物に刻まれた溝を針で辿るという行為によって、ぼくたちの想像力がこんなにもたやすく、直接的に引っ掻かれてしまうということ ー 大量に生産され、大量に消費されてゆく興行生産物だと分かっているにもかかわらず、レコードという物質はほとんどイメージの体験そのものとして、ぼくたちの目の前で回転している。」
 なんとも触覚的なことばだ。
 著者は、レコード・プレーヤーを単に音を「再生」している道具として捉えているのではない。その針先によって自分の想像力が「直接的に引っ掻かれてしまう」と感じている。

 今、針先によって引っ掻かれ、鳴らされつつある音楽を、針先によってこのわたしに書かれつつあり、針先によってこのわたしから読まれつつある音楽であると感じること。著者のこのような感性は、他の箇所にも表れている。
 たとえば、大友良英による「ポータブル・オーケストラ家電編」(2001)という風変わりなコンサートについて、著者の記した文章を見てみよう。
 「ポータブル・オーケストラ家電編」では、十六人のミュージシャンが、電動ひげ剃りやカメラ、携帯電話など、任意の家電製品を持ち寄り、スイッチをオン/オフするだけの演奏を行なうコンサートだった。
 一見すると、演奏らしい演奏がほとんど行われていないかのようなこのコンサートに、著者は、思いがけない緊張と弛緩を見出して、次のように書いている。
 「先ほど聴こえた音は、いったいなんだったのか? いま聴こうとしている音は、いったいどのような音なのか? 指先を緊張させながらも、鼓膜と思考を十分にゆるめるという相反する作業を行なうことによって生まれるこうした問いを繰り返すことによって、即興音楽の演奏者は、物質的持続の底の底へ降りてゆく。」
 じっさいに演奏に立ち会った者ならではの観察眼で、著者は、スイッチの上で沈黙を前に今か今かと緊張している「指先」に注目している。演奏に耳を委ねる一方で、スイッチの上で、今か今かと緊張している指先を見逃さない。ここにもやはり、音楽をただ聴くのではなく、触る/触られるの関係によって捉えようとする感性がうかがえる。

 空間を隔てた物の発する音を「聴く」ことに比べると、触ること、触られることは、より直接的な体験だ。何かが自分の身体上を動いていくとき、その軌跡、その強弱は、聴覚よりもずっと生々しく、好むと好まざるとにかかわらず、そこから逃れることは難しい。
 聴き手は、音に耳を傾けることで、好みの音を選ぶ側に回るのではない。むしろ、この身の上で音が否応なく鳴らされてしまうこと、この身を鳴らす音を呼び出そうとして、指先が緊張していること。著者の文章は、そんな、触覚的な音のあり方に触れようとしている。

 この『貧しい音楽』に呼応するように、もうひとつの本が昨年末に出版された。北里義之『サウンド・アナトミア』だ。
 即興演奏家、高柳昌行の著作や発言を軸にすえたこの本で、北里氏は二章以降、大谷能生の論に見え隠れする「指先」感覚を取り上げ、そこから豊かなイマジネーションを広げていく。
 おもしろいのは、その補助線として、フーコーの『臨床医学の誕生』を盛んに引用していることだ。
 『臨床医学の誕生』は、病に対する考え方の系譜を扱っている。かつて、病は身体の奥に広がる闇を外側の症状に頼って分類されていた。それが18世紀末から19世紀に病理解剖学の知見が登場すると、見事なまでに払拭された。体の内部組織の変化という、目で見える所見によって、病は徹底的に視覚化されるようになった。『臨床医学の誕生』は、その経緯を緻密に追っていく、いかにもフーコーらしいまなざし論だ。
 ところが、この『臨床医学の誕生』から、北里氏は視覚論ではなく、聴覚論、触覚論を引き出す。そのヒントとなっているのは、治療や解剖のために人体組織に分け入っていく臨床医の物言わぬ指先、すなわち「もろもろの深みを触れてみる人差し指」のイメージである。
 北里氏の論考では、身体も(そして音楽も)、視覚の対象というより、むしろ触覚の対象となる。人体の内部を沈黙のうちに探っていく指先のふるまいと、大谷氏の書く「緊張した指先」とが結びつけられる。そして、Sachiko M、中村としまるといった演奏家による、楽器としては本来用いられてこなかった電子機器を使った演奏の中に、「自らに触れるために響きに触れる」構造が聞き取られる。
 大谷氏とフーコーから得た指先のイメージを糧に、北里氏は、高柳昌行と吉増剛造の「死人」を経由して、吉増剛造、今福龍太の「群島」論へと舵を切る。その途上では、自身の介護体験を通して得た生活上の聴覚、触覚が語られ、議論が血肉化されていく。
 指先によって、音に、人の体に触れる。その指先が、海上に伸びていく島々をなぞり、寄せ来る波でその指先を洗われるかのような、心躍る議論である。


(評:細馬宏通「東京人」2008年4月号 p148)

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