ピアニストの動きに耳をすます

ピアノ・ノート(チャールズ・ローゼン/みすず書房)
之を楽しむ者に如かず(吉田秀和/新潮社)
永遠の故郷 真昼(吉田秀和/集英社)

 もう何十年も前のことで、長いこと忘れていたのだけれど、あるクラシック音楽のラジオ番組で、観客の笑い声の入ったレコード、というのを聴いたことがあった。ピアノがタタタッと早足に弾かれてから、ふいに立ち止まる。と、客が思わず笑いをもらす。その笑いごと、レコードに吹き込まれているのである。曲はピアノ版『展覧会の絵』の「卵の殻をつけたひなどりの踊り」。中学にあがったばかりの私には、客がなぜ笑ったのかが不思議だった。たしかに曲の調子も演奏も楽しげだけれど、こんな風にピアノがちょっとした音楽を弾くだけで、きき手が思わず笑ってしまうなんてことが、本当にあるだろうか。わたしがクラシックのコンサートにいたとしたら、そんな風に笑っただろうか。
 最近、チャールズ・ローゼンの『ピアノ・ノート』を読んだ。自身もピアニストであるローゼンは、ピアノ演奏について書かれた本書のあちこちで、ピアニストの身体と音との関係について触れている。とりわけおもしろいのは、「むずかしさ」についての見解だ。ローゼンは、ピアニストの演奏にはスポーツ的要素があることを認めた上で、なお、「技術的なむずかしさとは本質的に表現を豊かにするものだ」と書く。「むずかしいという感覚は緊張を高める」。
 弾き手だけでなく、きき手もまた、ここはむずかしいのだと察して、思わず緊張する。でも、きき手にとっての手がかりは、音だけではない。演奏会場でピアニストの腕が振りあがり、指が交錯し、腕が交差する。そうした身体の動きもまた、むずかしさを表し、きき手を緊張させる。ローゼンはそのことを、ベートーヴェンの『ハンマークラヴィーア』冒頭のフォルティッシモを例にあげて説明する。譜面には約二オクターブの跳躍を左手だけで弾き、右手は休むよう指示されている。「両手で弾くピアニストも多いが、それではベートーヴェンのねらった効果が半減してしまう。」とローゼンは指摘する。「この跳躍はたいへん危険で速度も速い。作曲家の書いたとおりに弾けば、これは耳で聴いても見た目にも壮大で大胆な跳躍で、勇気と興奮とが聴覚的・視覚的に伝わってくる。」
 この箇所を読んで思い出したのが、冒頭に書いた、笑いの入ったレコードだった。当時のわたしは、観客が笑ったのは純粋に吹き込まれた音楽のせいだと思っていた。けれど、観客は、目の前で弾いていたピアニストの身体の動きにも魅入られていたのではないか。
 試みに譜面を読んでみると、果たせるかな、「卵の殻をかぶったひなどりの踊り」の腕の動きはとてもおもしろい。クライマックスでは、左手が規則正しく駆けあがるのに対して、右手は気ままに跳ねまわる。その跳ねまわりがきわまったところで、右手はふいに動きを止める。一方左手はそのままの勢いで、止まった右手をひょいと飛び越し、腕を交差させて高い音をちょんと鳴らす。じつは最後の音は、わざわざ左手で跳躍しなくとも右手で弾いたほうが楽だし、実際、右手で弾いてしまうピアニストもいるけれど、ローゼンが「ハンマークラヴィア」について指摘したように、それでは効果が半減してしまうに違いない。それに、もとのタイトルを見ていまさらのように気づいたのだけれど、この曲の原題は「ひなどりたち」と複数形だ。となると、左手のアクロバティックな動きは、単なる大袈裟な身振りではなく、あたかも一羽のひなどりがもう一羽のひなどりを飛び越してしまうように、右手とは異なる主体を演じるための、意味のある動きなのではないか。そして、笑いは、音だけでなく、この手の動きに対しても起こったのではないだろうか。
 ローゼンを読んでいると、こんなふうに、譜面の向こう側にあるピアニストへと想像がはばたいてしまう。ピアノのノート(音)のみならず、ノートを出す身体のことを考えたくなる。ピアノ演奏のきき方が、がぜん違ってくる。

 吉田秀和氏の近著『之を楽しむ者に如かず』には、ピアニストについての文章がいっぱい詰まっている。ほとんどの文章はレコードやCDについてのことだけれど、多くの演奏家を生で見てきた氏の文章には、音のことのみならず、ピアニストの身体のことがさらりと記されている。それも、録音された演奏を弾く身体のことだけではない。たとえば、氏は、アンジェラ・ヒューイットの『平均律クラヴィーア曲集』におさめられた解説を読んで、彼女が一年少々の期間に少なくとも五十八回、平均律二巻の曲を全部ひいたと知って驚く。CDにおさめられた演奏は「四十八曲の全部が同じバッハではない。いろんなバッハ」。その演奏を聞きながら氏は、ヒューイットの五十八回の平均律、その都度違っていたであろう「いろんなバッハ」に思いを巡らす。想像の手がかりは、CDから聞こえる音と解説だけ。普通のリスナーとなんにも変わらない。けれどそこから思いがけない形で、CDでは聴くことのできない演奏への扉が開かれる。
 ときには、現実の演奏ではなく、夢で見た演奏にまで話が及ぶ。誰しも夢は見るし、ピアノの夢を見る人も、たぶんいる。けれど、夢で見た演奏をたどって、実際のピアニストの産み出す音にまで思いを馳せていくような、柔らかく強い力を持った文章は、そうはない。

 雑誌「すばる」に連載が続く『永遠の故郷』では、毎回、歌曲が取り上げられている。取り上げられている曲の多くはピアノ伴奏で、この伴奏のこともあちこちで触れられる。 
 最新作『真昼』に「雪のなかの眼」という一編が収められている。取り上げられているのは、シューマンの「初めての緑」。冬の苦しみのあとにやっと見つけられた緑のことを歌った歌なのだけれど、文章は、あたかも、少し遠くから歌に近づくかのように、氏自身の緑との出会いの話から始まる。そのあと歌詞が紹介され、歌の前に置かれたピアノ伴奏の弱音の始まり、そして歌がおわったあとにゆっくりと閉じられるピアノの終結部のことが語られる。「やっとたどりついた回復、幸せ、明るさのようなリタルダンド」。ここまでだけでも、まるでバーネットの『秘密の花園』のように胸を打つのだけれど、そのあとになぜか、リタルダンドをめぐる、危うく謎めいた話がそっと置かれて終わる。不思議な読後感。あたかも、この一編じたいが、弱音で始まり謎めいたリタルダンドで終わるかのよう。『永遠の故郷』の掌編はどれも、それ自体が一つの歌曲のように始まり、終わる。
 ところで、あの、観客の笑いを紹介した番組、あれは、吉田秀和氏のFM番組『名曲のたのしみ』ではなかったかと思うのだが、自信がない。あれから何枚も『展覧会の絵』の入ったディスクをきいたけれど、未だにあの笑い声に巡りあっていない。ひょっとしたら、夢だったのだろうか。

(評:細馬宏通「東京人」2010年6月号 p146-147)

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