月の出を待って

旧暦の決まった日にお祭りをする、ということの重要性にはじめて気づかされたのは、静岡県の山奥、水窪の西浦にいまも伝わる西浦田楽を見たときだった。

西浦田楽は、地元では「観音様のお祭り」と呼ばれている。山腹にある観音堂の境内で、谷間の各集落から集まった「能衆」と呼ばれる人びとが、夜通し田楽舞を舞うお祭りである。お祭りの日は旧暦の一月十八日と決まっている。だから現在の暦になおすと、一月になることもあれば三月になることもある。たとえ平日にあたるときも、能衆たちは仕事の休みをとって、お祭りに駆けつける。近隣の古いお祭りが、新暦の第何土曜、第何日曜に日を移していることが多いのに対して、西浦田楽はかたくなに旧暦を守っているのだが、その意味は、祭りが始まるときにわかる。

お祭りをつかさどる別当の家で準備が整うのは夜の九時を過ぎる。と、松明に灯りがつけられて、田楽舞に用いる道具一式を下げた能衆たちが、お堂に上がる階段のたもとに集う。そのとき、まるで申し合わせたかのように、東の山から月が昇る。谷間の村の山腹に広がる畑が、柔らかい十八日の月明かりに照らされる。その月明かりの中で、粛々とした太鼓と松明の灯りとともに、能衆たちが祭りを始めようと境内に上がってくる。

境内に設えられた舞の場は「庭」と呼ばれる。「庭上がり」を済ませ、舞い庭にたどりついた能衆たちは、楽堂の前に集い、「庭ならし」を唄う。それはこんなことばだ。

やいやあ 東山
小松かき分け
やいや いづる月んよう
いつる月
西へもやらじとやあ
ここで照らさんよう

月は、まさに東の山の松のかげから現れ出でたところだ。その月を「西へやるものか」とばかりに引き留めて、これから夜通し行われる舞を照らしておくれと願うのが、この「庭ならし」なのである。

もう何度となく、このお祭りを拝見しているが、訪れるたびに、月が見事なまでに庭あがりの時刻に昇る。それはこの祭りが、旧暦に従っているからである。もし、祭りが旧暦の十八日以外に行われてしまったら、月の出る時刻も、その月によびかけることばも、その先にひかえている夜の長さも、すべて意味を失ってしまう。だから、祭りは、どうしても、月齢に従う旧暦の一月十八日でなくては、十八日の月のもとでなくてはならない。「庭ならし」に続いて、白い衣装で長く舞われる「御子舞」では、舞い手は月明かりを浴び、この夜の光を集めるように幾度も回転する。三十を越える舞が、このあと夜を徹して舞われていく。


このところ源氏物語を読みながら、そこに現れる日付によって示される、旧い暦の月のことを思い浮かべている。

たとえば光源氏が須磨へと出立する日は「三月二十日あまり」とある。二十日を過ぎた下弦に近い月は、夜半近くに昇る。そんな、月の出の遅い出立前の数日間、源氏は毎夜それぞれの女のもとを訪れ、あるいは帝のもとを訪れて別れを惜しむ。

源氏はまず、左大臣のところを訪れる。須磨へと左遷される前のことで、人目につくのもはばかられるから、「夜に隠れて」、すなわち月が出る前に、こっそりと訪れる。あれこれと語らい、酒を飲んだあと、源氏は密かに情をかけていた中納言の君の閨へ忍んでいって「とりわきて語らひたまふ」。やがて夜明け前、まだ暗いうちに中納言の君のもとを出ようとすると、来るときには暗かった庭が「有明の月」で白く照らし出されており、春の霞が立っていることがその月明かりでほのかにわかる。来るときにはまだ顔すら見せていなかった月が、いまや西の空に残って「有明の月」となっている。そのことで、源氏が左大臣邸で語らい、中納言の君とむつみごとを交わした時間の長さが感じられる。

月を避けて訪い、相手のもとで時を過ごし、起きてみると月が輝いている。この時間の過ごし方は、同じ「須磨」のあちこちに見られる。

花散里のもとにもまた、源氏は月の出よりも早く、暗いうちに向かう。邸につくころにようやく「月おぼろにさし出でて」、広々とした池、暗い山木が照らし出され、花散里がいかに都を離れた暮らしを送っているかが明らかになる。と同時に、その月あかりは、これから渡ってくる源氏の姿に「あはれ添へたる月影」でもある。花散里は月影に照らされた源氏の姿を認める。そして几帳の奥から少しにじり出てきて、二人で月を見る。そのまま物語などするうちに明け方近くになり、源氏が帰っていくときには、すでに「月の入り果つる」。入り方の月光が、花散里の衣の濃い色を映し出す。

月かげのやどれる袖はせばくとも とめても見ばやあかぬ光を

さて、出立の前日になると、月の出はいよいよ遅くなり「暁かけて月出づるころ」となる。源氏は、あえて暗いうちから藤壺のもとを訪れる。そこで別れを惜しんだあと、「月待ち出でて」つまり、月の出をわざわざ待ってから、北山にある桐壺帝の陵墓にお参りする。お墓への道が草茂っているのが照らされ、かつての栄華が嘘のように思えたとき、月がさっと雲に隠れて「森の木立、木深く心すごし」。あたりは月影を失い、もはやどう帰ってよいのかわからぬ心地がする。それが、父でもある帝を失い、須磨に流されようとしている自分の境涯に重なる。

亡き影やいかが見るらむよそへつつ眺むる月も雲隠れぬる

そして、いよいよ須磨への出立の日、さらに月の出は遅い。しかし、慣れぬ道を月明かりなしに行くことはできない。月の出を待ってようやく邸を出ようとした源氏は、部屋の奥の暗がりにいる紫上にこう呼びかける。「なほすこし出でて、見だに送りたまへかし」。紫上が廂の及ばぬところまでにじり出てくると、その姿は「月影に、いみじうをかしげにてゐたまへり」。
源氏は紫上の姿を月影のもとでしみじみと見てから、夜明けに出発する。その道すがら、月に照らされた紫上の「面影につと添ひて、胸もふたがりながら」やがて舟に乗る。

この時代、陰暦の日付は、月の出の刻を、夜が明るくなる時刻を、その明るさを、そして明るくなってゆく空に残る月の形を、思い起こさせる数字だった。作者は、何月何日と日付をつけながら、その夜、源氏の為すことをひとつひとつ思い浮かべ、そのひとつひとつに対する月のありかをたどったことだろう。そのようにして描かれた源氏は、意識するともなく、月の出を逃れて女のもとにたどりつき、月の出のもとで相手を姿を認め、その月に照らされた姿を携えて出立する。源氏物語を読むと、夜はまさしく月に支配されていたのだなと思わされる。

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ニューヨークにならかみさまがいそう (I guess the Lord must be in New York City)

「ニューヨークにならかみさまがいそう」

かなしみにさよなら
あしたには あるいてるよ
やってきたんだ さあ なにをしよう

うんざり あてもなく
かなわないゆめ 願うのは
やってきたんだ さあ なにをしよう

ここにいます
きみはいまどこ

なんてすてきだろう
あこがれてたまち
わたしを放つよ やっと なにをしよう

(“I guess the Lord must be in New York City” by Harry Nilsson 訳:細馬)

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レッツダンス!

レッツダンス!
赤いくつはいて青いダンス
レッツダンス!
ラジオだ!なんか歌ってる
レッツダンス!
色んな色!まぶしいな
レッツダンス!
人混みをぬけてがらんどうだ

走れって言え! 走るよ
潜れって言え! もぐる
この街は はりさけそうだよ
おちてこい このうでに
ぷるぷるぷるぷるぷるぷるぷるぷる 花!

レッツダンス!
きれいなきみ消えないでね
レッツダンス!
今夜かぎりっていわないでね
レッツダンス!
このひとみ のぞいてごらん
レッツダンス!
月夜だ みんなでてこいこい

走れって言え! 走るよ
潜れって言え! もぐる
この街は はりさけそうだよ
おちてこい このうでに
ぷるぷるぷるぷるぷるぷるぷるぷる 花!

(“Let’s Dance” by D. Bowie, 試訳:細馬)

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「きりきりっ」考 — 宮澤賢治のオノマトペ(1) —

はじめに

宮澤賢治のオノマトペは、じっとしていられなくなるような、不思議な運動感を読み手の身体に立ち上げる。「かぷかぷ」と笑ってみたくなる。ケホンケホンと咳をしてみたくなる。地面から何かがのんのん湧いてくるような気がしてくる。

田守育啓『賢治 オノマトペの謎を解く』(大修館書店)を手にとり、一気に通読した。この本では、賢治のオノマトペが、通常のオノマトペからどのような置換、変換を経て創作されているかが論じられ、その上で各用例に解釈が添えられている。賢治のオノマトペのかなりをカバーしており、あの作品のあんなところにも、と気づかされることが多い。

その一方で、これらの解釈を読みうちに、次々と別解が浮かんできて、これはこうもああも考えられるのではないかと空想が止まらなくなってしまう箇所もあちこちにある。おそらく、賢治作品に親しんできた人なら誰でも、自分の賢治感、自分のオノマトペ感を持っているだろうし、自分で唱えるときの感覚とこの本の解釈とを比べたくなってしまうだろう。わたしも、そういう一人である。

オノマトペを考えることは、自分が日頃用いている音声の可能性を訪ねることであり、オノマトペを入口として自分が無意識のうちに依拠している音声世界に分け入っていくことでもある。そこで、以下では、『賢治 オノマトペの謎を解く』で取り上げられている宮澤賢治の創作したオノマトペを手がかりに、考えを思いつくままノートして、自分のオノマトペ観を耕していこうと思う。自分の中に眠っている音声の可能世界を覚まさせるべく、ときには極端な思いつきと思われるものも、あえて「きりきりきりっ」と加速させていこう。

以下、引用はいずれも『賢治 オノマトペの謎を解く』から行われている。なお、著者はあとがきで「オノマトペは一般語彙と異なり、言語音を最大限に利用して創られたことばなので、その理解の仕方や感じ方は個人の音に関する感性によって違う。したがって、本書で筆者が試みた分析と異なる様々な解釈も当然である」と断っている。以下に書くわたしの考えは、あちこちこの本とは異なっているけれど、それもまた、唯一の解答ではないことをお断りしておく。

促音は「不規則」か? — 促音のしるしづける運動停止 —

「それから一寸立ち上ってきりきりっとかかとで一ぺんまわりました」
「いきなり立ってきりきりきりっと二三べんかかとで廻りました」
(いずれも『風の又三郎』)

→「「きりきり」ではなく「っ」(促音)を伴う「きりきりっ」「きりきりきりっ」を用いているが、「っ」(促音)を伴うことによって、速く不規則に廻ることを示唆している。」
(p12-13)

この「きりきりっ」に限らず、本書では、オノマトペ末尾の促音「っ」について、いずれも「不規則さ」を表すものという解釈がなされている。が、この「不規則」がひっかかった。わたしは少なくとも、「きりきりっ」や「きりきりきりっ」に、「不規則」というようなぎくしゃくした動きは感じない。むしろ猛烈なスピードを感じる。

このスピード感は、著者も指摘しているように、「きりきり」という繰り返しによってもたらされているのだろう。一度口にした音列をもう一度繰り返すとき、口はその音列に慣れて、口の動きはより滑らかになる。また、繰り返すということは、その音列の継続が許されているということでもある。いま口にしたことばは何度唱えてもよい。いま起こっていることはこのまま続けてもよい。繰り返しは、ある音列に束縛されていることを表すと同時に、その音列が許されていることを表し、その音列の持つ速度に口を委ね、運動を委ねていることを表す。

では、「っ」を末尾に添えることで、運動は不規則になるだろうか。わたしはそうは思わない。語尾の促音は、多くのオノマトペに用いられるが、そこには「不規則」と呼びうるような共通性があるだろうか。たとえば「はぁーっ」「とうっ」「どばーっ」といった促音は、はたしてその内容の「不規則」性を表しているだろうか。

日常会話においてオノマトペが動作とともに表れる現象を集めて観察すると、オノマトペ語尾に促音が入る場合には、そこで動作が終わることが多い。言い換えれば、動作の終点をしるしづけるタイミングで「っ」があらわれやすい。運動内部の速度変化が起こる点でよりも、運動の終点で「っ」が同期するのである。というわけで、促音「っ」一般的な性質として、「運動の終点のしるし」をここで挙げておきたいと思う。

この感覚を採るならば、「きりきりっ」の「っ」は、運動じたいの不規則さよりも、むしろ、又三郎の動作の終点をイメージさせる。きりきりという音の繰り返しは加速をもたらし、末尾の「っ」は逆に、急ブレーキのような突然の運動停止を思い浮かべさせる。

きりきりとくるくる

著者は、賢治がなぜ通常の「くるくる廻る」という表現を選ばずに「きりきり廻る」を選んだのかに注目している(おもしろい!)。その理由として、著者は「踵で廻っている」点に注目し、

「「きりきり」を使うことによって、「くるくる」よりも回転速度が速いことを表したかったのではないか」

としている。

この解釈にはいったん同意した上で、もう少し考えを広げてみたい。

「きりきり」には「きりきり舞い」「きりきり歩けい」「きりきり弓を引き絞る」などの表現がある。ここには速度に対する感性だけではなく、そこにこめられている力や緊張に対する感性が表れている。「きりきり舞」は、単なる舞ではなく、仕事や用事に追われるという「力」によって舞わされている舞である。きりきりとなる「弓」にもまた、引き手の力と緊張が表れている(やがて矢は高速で飛んでいくだろうが、ここでの「きりきり」は、その速度をもたらす力を表している)。「きりきり歩けい」も、何もただすばやく歩けという命令ではなく、後ろ手に縛った縄に「きりきり」と力を加えることで相手の歩みを速めるという風に、背後の力を表している。

「きりきり」と「くるくる」との力の有無の差は、母音にも表れている。「イ」段の口の形は「ウ」段の口の形に比べて、歯をくいしばる形に近づく。力を放つことよりも、力を貯めること、力が加えられていることも想起させる。くるくる、だと自動的に慣性の力で廻っている感じがするのに対し、きりきり、だと回転中にも何らかの力が加わり加速されている感じがする。

以上のような感覚が重なるとき、きりきりは、くるくると比べて、ただ速いだけでなく、そこになんらかの力が込められていること、その結果加速が起こっていることを感じさせる。力が質量と加速度の積で表されること、F=maであることが、「きりきり」にこもっているといってもよい。

もう一つ、「きりきり」は「切り」「錐」あるいは「霧」といった語も想起させる。「きり」は、鋭さ、細さ、細かさの感覚とつながっている。きり、ということばが回転するとき、それは両掌で切り揉まれる「錐」のような運動、つまり、中心からの半径の短いものが行う高速な運動をも想起させる。フィギュアスケーターがスピンするとき、広げていた手を胸元に畳むことで一挙に回転のスピードを上げるように、又三郎は錐のごとく手足を身体軸に近づけて「きりきりっ」と廻ったのではないか、そんなことも感じさせる。

又三郎は、踵を中心に、畳まれたコンパスのごとく細くなって高速で回転し、よろめくこともなくすばやく急停止する。そんなイメージが、「きりきりきりっ」からは立ち上がってくる。このとき又三郎は、よろこびで「顔をまるでりんごのようにかがやくばかり赤く」している。きりきりきりっと回転する彼の身体にはおそらく、かがやく赤さをその顔にもたらしたのと同じ力が充実している。

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学術的な文章を書くためのメモ:対比と列挙について

はじめに

学部生や院生のレポートや論文を添削していると、ある種の傾向があることに気づく。さまざまな語尾が使われる。一つの文にいくつもの要素が埋めこまれる。文の長さが伸び縮みし、文構造が変化する。その背後には「学術的な文章を書くためにはできるだけ多くの複雑な表現を組み合わせなければばならない」という思い込みが透けて見える。残念ながら、その思い込みとは逆に、多くの複雑な表現を組み合わせた文章はしばしば読みにくく、誤解されやすく、そして学術的ではない。

学術的な文章でよく使われるのが、対比と列挙である。以下では、対比や列挙を行うときにいくつもの表現を用いるといかなる混乱が起こるかを、例を挙げて説明する。その上で、どんな表現をとれば理解しやすくなるかを考えてみよう。

対比

対比表現では、いくつかのできごとを取り上げて、それぞれの違いがどこにあるのかを指摘する。多くの学生は、愚直な繰り返しを避け、さまざまな表現を使うことで、対比表現を彩ろうとする。しかし、それが混乱のもととなる。どんな混乱か。
まずは、ある学生の書いた文章を紹介しよう(内容は一部改変した)。

二人の行為は以下の点で違っていることがわかる。頭をあげ、手を左右に振って線を描いて、それから耳のあたりでてのひらをかざしていたXは、手を相手に見せそれを表現手段として使っており、腕をさげてすぐ服に手をやり、ポケットの中に指をつっこむYは、手を隠すこと自体を表現していると考えられる。

この文章の内容は間違ってはいない。エッセイや小説ならば、もしかしたらこういう書き方が効果を発揮する場合もあるかもしれない。しかし学術的な文章としてはよろしくない。文章の形式が複雑で対比の構造がわかりにくいからである。具体的には以下の四点が問題である。

・主語が後回しになっている。誰の行為かが明かされないまま長々と説明が続く。
・一文が長い。
・何と何が対比されているかが最後まで読まないとわからない。
・どこが対比の切れ目かがわからない。

では、どうすれば、よりわかりやすくなるだろうか。それには以下のように、逆の方法を考えればよい。

・主語を先に述べる。
・一文を短くする。
・対比されるものどうしが同じ文章構造を持つようにする。
・切れ目に連結句を入れる。

添削した文章は次のようになった。

二人の行為は以下の点で違っている。Xは、頭をあげ、手を左右に振って線を描いて、それから耳のあたりでてのひらをかざすことで、「手を見せること」を表現手段として使っていた。これに対してYは、腕をさげてすぐ服に手をやり、ポケットの中に指をつっこむことで、「手を隠すこと」を表現手段として使っていた。

単に一つの文を短くしただけではない。「〜ことで」「表現手段として使っていた」といった表現を繰り返し、句読点の用い方をそろえることで、文章構造そのものに対比の手がかりをもたせていることに注意してほしい。このことで、X/Yという対比だけでなく、Xの行動/Yの行動、Xの行動の特徴/Yの行動の特徴、という対比もはっきり読み取れるようになる。

ここでは、対比の基本構造となるのはXとYという二つのブロックである。そこで、Yの前に「これに対して」を置き、対比の目印とした。このように、対比がどこで行われているかを示すには「一方」「これに対して」といった連結句を用いるとよい。

列挙

学術的な文章では、いくつかの項目を列挙していく表現をよく使う。箇条書きはその典型例だ。箇条書きは、何が列挙してあるかが明快な点で優れているが、列挙のたびに用いられると文章があちこちで中断してしまう。そこで多くの学生は、あくまで文章の中で列挙を行おうとするのだが、読者を飽きさせないようにという配慮からであろうか、さまざまな表現を繰り出してくる。しかし、それが混乱のもととなる。どんな混乱か。
再び、ある学生の文章を紹介しよう(内容は一部改変した)。

三人の視線は以下のようになっていた。Xは、YとZの方に向けて、YはXを見ながら行為しているが、Xが動く前に視線をZへ向け始めている。そしてZは、XとYが動き始めたときにXを見る。Xが次の行動をし始めたところでZはうなずきながらYを見る。

どうやら三人の視線について書かれているらしい。しかし、この文章を読んだほとんどの人は、途中でいったい誰がどこに目を向けている話なのかさっぱりわからなくなってしまうだろう。それは、文章の構造が列挙の構造をとっていないからである。具体的には以下の三点が問題である。

各項目に対して、
・文の割り当て方がバラバラ。
(XとYの視線は一続きの文になっている一方、Zの視線は二つの文に分かれている。)
・表現がバラバラ。
(「見る」「向ける」「視線を向ける」とそのつど異なる表現が混ざっている。)
・文法構造がバラバラ。
(「視線を○○に移動させる」「○○に視線を移動させる」とそのつど目的語の位置が変わっている。)

では、どうすれば、よりわかりやすくなるだろうか。それには以下のように、逆の方法を考えればよい。

各項目に対して、
・それぞれ同じ数の文を割り当てる
(一人の視線に一つの文を用いる)
・表現を統一する。(「視線を向ける」「視線を移動させる」)
・文法構造を統一する。(「視線を○○に移動させる」と目的語の位置を固定する)

添削した文章は次のようになった。

三人の視線は以下のようになっていた。Xは、視線をずっとYとZに向けていた。一方Yは、視線をXに向けて行動Aを始めたが、Xが動く前に視線をZに移動させた。そしてZは、XとYが動き始めたときに視線をXに向けていたが、Xが次の行動をし始めたところでうなずきながら視線をYに移動させた。

おわりに

繰り返しを何か拙い表現であるかのように考えるのは誤解である。さまざまなテクニックを用いたからといって、よい文章になるわけではない。逆に、必然性のないテクニックが使われるほど、文の趣旨はあいまいになり、論理が見えにくくなる。繰り返しを怖れないこと。むしろ、文章構造の繰り返しをうまく使いこなすこと。適切な繰り返しは拙い表現ではない。対比と列挙の構造を明快にするためのテクニックである。

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Sunday Morning

Sunday Morning
(by Velvet Underground: Reed, Cale)

あけまして にちようび
ぐったり でもねむれないきもち
朝だが にちようだ
いっちゃっただいなしの日々 そうさっきまで
まいっちゃう振り返ると
いつも扉叩くの誰
知らないよ

にちようだ 落ちようか
こんなきもち 知りたくもない
あけまして にちようは
ずっとまたいでまたいできた日付
まいっちゃう振り返ると
いつも扉叩くの誰
知らないよ

(訳:細馬宏通)

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鴨田潤『てんてんこまちが瞬かん速』を読む。

てんてんこまちがしゅんかんそく。「ん」が4つある。どうでもいいことじゃない。歌の中に埋めこまれる「ん」は、尖ったことばが休む、休みの中で見逃され聞き逃される声、その隙にコマを進める声で、それが証拠に、ボールはてんてん外野を転がっていくとき、周到なシフトを組んだはずの野手の隙をぬっていく、そのボールの振る舞いがてんてんと呼ばれるのだから、やはり「ん」が4つあることは尋常ではない。そんなどきどき、いやてんてんとするタイトルだから、てっきりイルリメの、あの思いがけない場所に転がり出していくことばにあふれる小説だと思って読み始めたらまるで違う。冒頭からゴォォォロロロロロロロロロとウレタンのタイヤ音がする、その鈍さ。わたしは律儀にも、いや、これはやはり音をひとつひとつ拾い上げねばと、ロの数を正確に数えて調子をとってみたが、その鈍いスケートボードの音のように、ひとつひとつの文はごとごと切れて、余計なイメージにつながるのをむしろ拒絶しているとさえ感じられる。あまりにあっけない一文また一文に不安になりながら読み進めると、登場する女子高生たちの会話もごとごと切れることばでできている。言いたいことがアスファルトの凸面にひっかかるように短いことばで跳ねて、もう次の話題になる。どうしよう。このまま読み進めていいんだろうか。いいんだろうか、と思いながら、しかしわたしは次第に風呂から出られなくなった(風呂で読み始めたのだ)。てっきり、スケボーとマンガと音楽の好きな子の話だと思っていたら、かっと目を開く少女が現れた。少女は強く思うとき、大きく目を開く。想像してごらん。天国なんかないってことを思うとき自分の目がどうなってるか。わたしの目は閉じている。わたしは目を閉じたほうが、自分の思念に近づけると思っている。けれど、この少女は目を開く。大きく目を見開くほうが速くたどりつける。そう信じてたどりつく。そんな話を風呂で読み始めてしまった。ああ、どうしよう、ビバノンノン、あ、んが二つある。どうしようもない。湯気を見据えよう。湯気の向こうにはつるりとした浴室の壁が見える。読んでいるのは音楽の話だ。バンドの中に入りたい。バンドが瞬きしている間にバンドの中の音楽になりたい。瞬きの中で音楽になりたい。そんな話を風呂で読み始めてしまった。本を持つ左手がすっかり冷えてしまった。右手と交代してその左手をじゃぽんとつけると、さあっと熱がやってきて、この感じ、このやってくる熱の速さで、目を見開いて一歩踏み出すと、少女になれるような気がする。目を開き、時間を拡大する術を身につけたい。「てんてんこまちが瞬かん速」、術の名前みたいだ。かつて、サイボーグ009は奥歯を噛んで加速を得た。しかし、これはスイッチを押してオートマチックに得る加速の話じゃない。目を見開き、相手の瞬きの間に飛び込む少女の話。少女の名前は飛田悦子、まるで石森章太郎が描いたもう一つのマンガに出てくるあの子みたいだ。瞬きの中に音が詰め込まれ、ことばが詰め込まれる。もうこのまま読み切ってしまえ。しゅんかんの「ん」、誰もが目をつぶってしまうそのわずかな隙間にボールを転がしてしまえ。ああ目を開きすぎて目が開かなくなりそうだ。ならばイルリメ『トリミング』のフレーズを転がしていこう。「強気の瞬きが次々と景色のコマを進めていく。」

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ミシンを踏む音は階段を昇る  —『カーネーション』の一階と二階—

足踏みミシンには独特の調子がある。わたしは足踏みミシンは遊びで踏んだことしかないから、本当のミシンがどんな調子かをくわしく知っているわけではない。けれど、尾野真千子が踏むミシンの所作には、ゆりかごを揺らすような優雅さがあって、足袋で、靴下で、素足で、ストッキングで、時代をこえて揺らされていく足踏みの映像は、かたかたという音と相まって、『カーネーション』の調子をゆったりと刻んでいくようだった。がたがたとせわしなく踏めば糸が切れてしまう。どんなに急いているときも、ゆっくりと踏みだし、調子が上がるまで待つ。配慮の行き届いた繊細な所作。

繊細なミシンの扱いに比べて、日常の糸子は驚くほどニブく、多くの物事に無関心であるかのように描かれる。それをもっともよく表していたのが、末娘の聡子がテニスの大阪府大会で優勝して、その賞状を持ち帰った回だった。

聡子が賞状の入った筒を差しだそうとするたびに、糸子は聡子の活動をまるきり知らぬかのように関係のない話を持ち出す。仕事が終わると酒をちびちびやりながらスルメをかじり、目の前の聡子を相手に、親に立ち向かうようになった次女直子について愚痴を言う。それもスルメをかじりながら(この、畳に寝転がる尾野真千子のくつろぎかたのすばらしいこと!)。しかし糸子は何も気づいてはいない。実は、直子は東京での仕事が壁にぶつかって泣いているのであり、目の前の聡子はテニスで優勝しているのである。かつて糸子がスルメをかじりながら歯を食いしばって産んだ直子が、遠くで泣いている。スルメをかじる糸子をへにゃへにゃ笑って見ている聡子が、うしろ手に筒を隠している。どちらも糸子の意識からはこぼれてしまう。筒は糸子の盲点の象徴である。筒は15分のあいだ、ついに糸子に気づかれることはない。あちこち動かされそのたびに見つかりそこねる筒自体が主人公の15分、筒自体が糸子のニブさのカタマリとなってあちこちを動き回る15分だった。

翌日の回、全国大会で優勝した聡子は岸和田に帰ってみなに祝福される。が、糸子はあいかわらず仕事を続けている。

二階には子ども部屋がある。一階には仕事場がある。聡子は蒲団の中で天井をみつめ、糸子はミシンを踏んでいる。いつも登場人物が二階へと消えていく階段が写る。階段は、糸子のニブさのように二つの階を分かつ。その階段を伝って、蒲団の中の聡子のもとに、柔らかいミシンの音が糸のように届く。糸子の優雅なミシンの所作を思い起こさせる音。そのミシンの音を聞かせる場面が思いがけなく長く続いて、もう見る者は何かを予感する。

聡子が、うち、テニスやめるわ、と言ってからそのわけを告げるところで、まさか安田美沙子にやられるとは思っていなかった人は全国で一千万人いるに違いない(わたしもその一人だ)。聡子は「もうさみしい」と言った。確かに「もうさみしい」だった。そんな言い方は、普通ない。そして、よく聞き直せば「もうさみしい、さみしいさかい」と言い直していた。「もうさみしいさかい」を言い淀んだのなら、わかる。おそらくそれがここで言われるはずだった一文なのだろう。しかし、安田美沙子の声は、「さみしい」と「さみしいさかい」の間に言い淀みを気取らせるようには響いていなかった。「もうさみしい」で声はばっさり切れており、それが聡子の吐き出したことばだった。

聡子のことばは、ことばのつくりを破るほどになけなしで、見るわたしを強く打つ。それは、糸子のニブさをも強く打ったに違いない、と思わせる。しかし、わたしは、前夜の場面、ミシンの音をずっと聞きながら、すでにこのできごとを予感していたのではなかっただろうか。

ミシンの音は、意図して送られるわけではない。ミシンの踏み手は手元を一心に見つめている。ミシンの針を通過していく布は、踏み手の意識から逃れて、衣服の形をまといつつ向こう側へと送られていく。布はそんな風に、衣服になっていく。ミシンを踏む尾野真千子のゆっくりとした調子、その表情には、聡子を心配するような様子は微塵もない。あくまで踏み慣れたミシンと相対しているその表情は、微かにほほえんでいるとさえ見える。しかし、その一方でミシンの音は、できあがっていく衣服のように階段へと送り出され、聡子の耳に届けられる。それを聞いている聡子の表情と対比されるとき、尾野真千子の表情にはかすかな音を階段にもらしていく者だけがもつ邪気のなさが表れているようで、はっとさせられる。

ミシンは糸子のもう一つの感覚であり、その音は意識の届かぬ先を綴っていく。音は目に見えぬ糸、感覚の触手となって階段を昇っていく。それはただ相手を感 じるだけの一方通行の感覚ではない。それは相手もまた聞きとることができる音であり、いつの間にか相手にたどりついてしまう行為でもある。

「もうさみしい」の回は、不思議と何度も思い出される。ミシンをゆっくりと踏み出すように思い出す。やがて音が、階段をかたかた昇っていくのが聞こえるようで、決まってそれは夜である。

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カーネーション/渡辺あや に関するつぶやきのまとめ(3)

20120303

気がついたら北村が勘助みたいに居るがな
posted at 18:23:56

善ちゃんが垣間見えるのはあの二人の向こうで、その見え方もよかったなあ。
posted at 18:27:51

などといまごろ書いているが、実は朝に見たのを反芻しているのである。
posted at 18:28:33

わし、宮川大輔くらいあせってカーネーションの感想言うてんな。
posted at 18:53:40

昨日、控室に行ったら、いつもカーネーション話をする職員の方が開口一番「ほっしゃんがついにコクったのにスルーでしたね!」とにこにこ。しかし、木金と早朝出張で見ておらず、口ポカン。ね、ねたバレ…。 でもあのカーネーションの無茶な量、予想がつかんかった。
posted at 19:47:44

20120306

そんなわけで、録画していた今週の「カーネーション」をおそるおそる見ることにするか。
posted at 19:17:30

「カーネーション」で尾野真千子が絶妙に演じていたくだりのひとつに、ナレーションが知らん間にひとりごとになっている「めぞん一刻」メソッドがあったが、あれはかなり高度な技やってんな。
posted at 20:10:33

20120307

夏木マリの非関西弁的間に慣れつつある。
posted at 17:55:03

あの、そこにはいない人のマジックがかかるときのシタールっぽい音楽はいいですね。
posted at 17:56:17

ことばのスピード感は速度にあるのではなく、緩急、つまり加速度にある。抑揚を丁寧にたどろうとすると、加速度が失われる。夏木マリの独白にもう少し加速度が欲しいと思うが、一方で、この加速度の欠乏感、プラスチック感で昭和60年を測るんやなと思いながら見ている。
posted at 18:14:14

20120308

そういえば昔、プリン&キャッシーのやってた「パクパクコンテスト」で夏木マリの「絹の靴下」を妖艶にやってた男の子がいたなあと思って調べたら、のちにユーミンのバンドでベースを弾いてるので驚いた。
posted at 00:48:22

桂雀々『必死のパッチ』を読んだらプリン&キャッシーの番組が出てきたのにも驚いたなあ。あのバタバタしておもろい子が後の雀々さんになるとは想像だにつかなかった。
posted at 11:34:31

直枝さんは何度「そっちの『カーネーション』じゃねえ!」と思われたことであろうか。
posted at 16:43:35

「連続テレビ小説」(夏木マリの声で)
posted at 18:03:27

20120309

好きなキャラクタがおらんようになって、電話がリンリンやなくてトゥルルルって鳴って、ワープロで書かれた企画書差し出されて、さみしさに肌理のないのんがさみしい、孫のなけなしのクリスマスケーキがぶいんぶいん言う音でつぶれて、そのつぶれたんを噛みしめる80年代。ええ脚本やなあ。
posted at 11:11:34

20120313

今日良かったやん、朝の連続テレビ小説。
posted at 12:00:06

3月3日のほっしゃん。のセリフがきいとったなあ。
posted at 12:02:27

20120317

これ、おもしろいなあ。脚本家・渡辺あやインタヴュー(前編) http://t.co/EfXLFRvI
posted at 20:39:40

20120318

以前も書いたけれど、糸子の「鈍さ」はドラマの鍵で、それはナレーションにも表れている。天国からでも見るように主人公が自分の居ない場面の説明を加える手法は使われない。糸子が見聞きしないことはナレーションに現れず、そのことで、何が糸子の意識に届いていないかがよくわかる。
posted at 12:22:38

孫娘である里香目線のショットが用いられるとき、ナレーションは休んでいる。里香は糸子の意識(ナレーション)から逃れて、一人黙って店やショーでのできごとを見、今日着る服を選ぶ。そういうショットを積み重ねて、里香の成長や変化が描かれている。
posted at 12:26:02

渡辺あやさんのインタビューに、撮影と脚本執筆は並行で、俳優の演技を見て脚本の進行が変わる、というおもしろい話が載っている。あの主人公(ナレーション)の「鈍さ」はそこでも生きているのだな、と合点した。主人公が物語を支配していないから、キャラクタが自由に動き出す余白が生まれる。
posted at 12:31:56

20120319

奈津に再会するところ、つっけんどんなことばの劇伴よかったなあ。ミシンにマジックがかかるとき、つぼみがほどけるときの曲。
posted at 21:11:56

20120320

劇伴もまた物語に開かれている。作曲家がある場面や情感にあてて書かれた音楽が、のちにさまざまな場面で繰り返し使われる。一つの曲はそれぞれの場面の情感に添いながら、次に鳴るときにはそれらの場面を呼び覚ます力を得ている。それがどんな力なのかは作曲家にも予想がつかない。
posted at 02:06:15

これまでは夏木マリの活気と貫禄に隠れていた糸子の「うかつさ」が、江波杏子との短いやりとりでぱあっと浮かび上がる。おもろいなあ。
posted at 16:27:45

20120325

ようやく貯まっていた連続テレビ小説に追いついたのだが、中村優子の第一声はしびれたなあ。ドラマの中でこういうトーンでしゃべる人はこれまでいなかった。
posted at 00:08:22

20120331

半年間、いい「朝の」連ドラやったなあ。年をとった主人公が節目節目で「おはようございます」と挨拶するのが、「朝の」やった。早起きするようになったオノマチ糸子、交代したての夏木マリ糸子の「年をとりました」、そして今日。
posted at 20:50:09

左上に二つの朝の時刻が表示されるところも、きゅーってなった。10月にこの歌をきいてきっといいドラマだと思ったのだった。半年経ってんな。半年前にこの人がテレビを見ててんな。テレビでないとありえない表現。
posted at 20:53:21

そば/そら、しょうてんがい/しんさいばし、みどり/ひかり。うっかりポエムになりそうな連なりのまんなかに、「しょうてんがい/しんさいばし」というあきないの単語が入ると、わらべうたのような稚気が出て楽しい。今日の朝の連ドラの話。
posted at 22:15:56

そして、「みどり/ひかり/みずのうえ」と続く。みどり/ひかり、だけだと「緑/光」かなと思う。しかし三つ連なると、「緑/光り/水の上」のようでもある。「ひかり」は名詞と動詞のあいだで揺れて、その揺れで声の主が動くよう。
posted at 22:18:29

善作が死んだあとに、仏壇を拝んでた糸子と優子のとこに線香の煙がすうっと漂ってきて、そこから優子が散髪にいかされて変な髪になって隣のおっちゃんとこに行って軍服作る人連れてきて、そこからがーっと巻き戻して、あ、おとうちゃんやな、って気づく回があったなあ。今日は自動ドアがあいとった。
posted at 23:03:20

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日曜の朝

以前、「オールナイト梅田哲也」という梅田くんによる夜を徹するイベントの最後に、ヴェルヴェットアンダーグラウンドの「サンデイ・モーニング」を合唱したことがあった。それは、もうろうとして迎えた朝の気分にいかにもふさわしい合唱で、そのあともときおり思い出すことがあった。つい最近また思い出して、有名な洋楽をいろんな人に訳してもらうというイベントをするにあたって、「サンデイ・モーニング」を取り上げた。そうしたら一昨日、イベントの当日になってテニスコーツの(真夜中フォークミュージックの)植野隆司くんが「がんばって二番まで作ります」と本番直前まで粘って書き上げたのだが、それは、Watch outというキーフレーズを「お茶」と訳す思いがけないものだった。お茶飲んでる間に世界がほろんでも構わない。ドストエフスキーの一節を思い出して作ったのだという。こんな風に、真夜中フォークミュージックの歌には、すっとこちらの間合いに入ってくるような不思議なことばがしばしば隠れている。

翌日、京都でレコーディングをしたあと表に出たら、そこに梅田くんがいて驚いた。近くの元小学校で「マームとジプシー」という人たちの劇を見てきたのだという。しばらく一緒に歩きながら、そういえば、と前日の「サンデイ・モーニング」の話をしたら、ああそれは今日にふさわしいですね、と梅田くんが言う。その、今日見た劇の最後に流れたの、サンデイ・モーニングだったんですよ。梅田くんは、あまり驚いたふうでもなく、符牒を確かめるような口ぶりでそう言う。

一緒に飯でも食いませんか、時間が余っちゃったので、と言われて、じゃせっかくだからとついていくと、元小学校前の橋のたもとでこちらを見ておおと言っている人たちがいて、よく見たらアメヤさん一家にテニスコーツのさやさんたちだった。ひさしぶりに、しかも東京じゃなく京都で会うなんて思わなかった。何年も会ってなかったくーちゃんは、しばらく距離をとったあと、ふいに近くに来るとぐーっと頭を押しつけてきて、歩きながら食べ出したビスコを分けてくれて、こちらが鼻歌をうたうと、ひゃーっと跳ね出してぽんぽんしゃべった。

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