旧暦の決まった日にお祭りをする、ということの重要性にはじめて気づかされたのは、静岡県の山奥、水窪の西浦にいまも伝わる西浦田楽を見たときだった。
西浦田楽は、地元では「観音様のお祭り」と呼ばれている。山腹にある観音堂の境内で、谷間の各集落から集まった「能衆」と呼ばれる人びとが、夜通し田楽舞を舞うお祭りである。お祭りの日は旧暦の一月十八日と決まっている。だから現在の暦になおすと、一月になることもあれば三月になることもある。たとえ平日にあたるときも、能衆たちは仕事の休みをとって、お祭りに駆けつける。近隣の古いお祭りが、新暦の第何土曜、第何日曜に日を移していることが多いのに対して、西浦田楽はかたくなに旧暦を守っているのだが、その意味は、祭りが始まるときにわかる。
お祭りをつかさどる別当の家で準備が整うのは夜の九時を過ぎる。と、松明に灯りがつけられて、田楽舞に用いる道具一式を下げた能衆たちが、お堂に上がる階段のたもとに集う。そのとき、まるで申し合わせたかのように、東の山から月が昇る。谷間の村の山腹に広がる畑が、柔らかい十八日の月明かりに照らされる。その月明かりの中で、粛々とした太鼓と松明の灯りとともに、能衆たちが祭りを始めようと境内に上がってくる。
境内に設えられた舞の場は「庭」と呼ばれる。「庭上がり」を済ませ、舞い庭にたどりついた能衆たちは、楽堂の前に集い、「庭ならし」を唄う。それはこんなことばだ。
やいやあ 東山
小松かき分け
やいや いづる月んよう
いつる月
西へもやらじとやあ
ここで照らさんよう
月は、まさに東の山の松のかげから現れ出でたところだ。その月を「西へやるものか」とばかりに引き留めて、これから夜通し行われる舞を照らしておくれと願うのが、この「庭ならし」なのである。
もう何度となく、このお祭りを拝見しているが、訪れるたびに、月が見事なまでに庭あがりの時刻に昇る。それはこの祭りが、旧暦に従っているからである。もし、祭りが旧暦の十八日以外に行われてしまったら、月の出る時刻も、その月によびかけることばも、その先にひかえている夜の長さも、すべて意味を失ってしまう。だから、祭りは、どうしても、月齢に従う旧暦の一月十八日でなくては、十八日の月のもとでなくてはならない。「庭ならし」に続いて、白い衣装で長く舞われる「御子舞」では、舞い手は月明かりを浴び、この夜の光を集めるように幾度も回転する。三十を越える舞が、このあと夜を徹して舞われていく。
このところ源氏物語を読みながら、そこに現れる日付によって示される、旧い暦の月のことを思い浮かべている。
たとえば光源氏が須磨へと出立する日は「三月二十日あまり」とある。二十日を過ぎた下弦に近い月は、夜半近くに昇る。そんな、月の出の遅い出立前の数日間、源氏は毎夜それぞれの女のもとを訪れ、あるいは帝のもとを訪れて別れを惜しむ。
源氏はまず、左大臣のところを訪れる。須磨へと左遷される前のことで、人目につくのもはばかられるから、「夜に隠れて」、すなわち月が出る前に、こっそりと訪れる。あれこれと語らい、酒を飲んだあと、源氏は密かに情をかけていた中納言の君の閨へ忍んでいって「とりわきて語らひたまふ」。やがて夜明け前、まだ暗いうちに中納言の君のもとを出ようとすると、来るときには暗かった庭が「有明の月」で白く照らし出されており、春の霞が立っていることがその月明かりでほのかにわかる。来るときにはまだ顔すら見せていなかった月が、いまや西の空に残って「有明の月」となっている。そのことで、源氏が左大臣邸で語らい、中納言の君とむつみごとを交わした時間の長さが感じられる。
月を避けて訪い、相手のもとで時を過ごし、起きてみると月が輝いている。この時間の過ごし方は、同じ「須磨」のあちこちに見られる。
花散里のもとにもまた、源氏は月の出よりも早く、暗いうちに向かう。邸につくころにようやく「月おぼろにさし出でて」、広々とした池、暗い山木が照らし出され、花散里がいかに都を離れた暮らしを送っているかが明らかになる。と同時に、その月あかりは、これから渡ってくる源氏の姿に「あはれ添へたる月影」でもある。花散里は月影に照らされた源氏の姿を認める。そして几帳の奥から少しにじり出てきて、二人で月を見る。そのまま物語などするうちに明け方近くになり、源氏が帰っていくときには、すでに「月の入り果つる」。入り方の月光が、花散里の衣の濃い色を映し出す。
月かげのやどれる袖はせばくとも とめても見ばやあかぬ光を
さて、出立の前日になると、月の出はいよいよ遅くなり「暁かけて月出づるころ」となる。源氏は、あえて暗いうちから藤壺のもとを訪れる。そこで別れを惜しんだあと、「月待ち出でて」つまり、月の出をわざわざ待ってから、北山にある桐壺帝の陵墓にお参りする。お墓への道が草茂っているのが照らされ、かつての栄華が嘘のように思えたとき、月がさっと雲に隠れて「森の木立、木深く心すごし」。あたりは月影を失い、もはやどう帰ってよいのかわからぬ心地がする。それが、父でもある帝を失い、須磨に流されようとしている自分の境涯に重なる。
亡き影やいかが見るらむよそへつつ眺むる月も雲隠れぬる
そして、いよいよ須磨への出立の日、さらに月の出は遅い。しかし、慣れぬ道を月明かりなしに行くことはできない。月の出を待ってようやく邸を出ようとした源氏は、部屋の奥の暗がりにいる紫上にこう呼びかける。「なほすこし出でて、見だに送りたまへかし」。紫上が廂の及ばぬところまでにじり出てくると、その姿は「月影に、いみじうをかしげにてゐたまへり」。
源氏は紫上の姿を月影のもとでしみじみと見てから、夜明けに出発する。その道すがら、月に照らされた紫上の「面影につと添ひて、胸もふたがりながら」やがて舟に乗る。
この時代、陰暦の日付は、月の出の刻を、夜が明るくなる時刻を、その明るさを、そして明るくなってゆく空に残る月の形を、思い起こさせる数字だった。作者は、何月何日と日付をつけながら、その夜、源氏の為すことをひとつひとつ思い浮かべ、そのひとつひとつに対する月のありかをたどったことだろう。そのようにして描かれた源氏は、意識するともなく、月の出を逃れて女のもとにたどりつき、月の出のもとで相手を姿を認め、その月に照らされた姿を携えて出立する。源氏物語を読むと、夜はまさしく月に支配されていたのだなと思わされる。