ゼルダの伝説 −時のオカリナ−
エンディングのムービーのこと




あやまるナヴィ(概念図)


というわけでようやくエンディングを迎えました。いやあ、もう死にまくり。リセットを除いても128回は死んだ。しんだいきたしんだいきた。寝台来た。眠い。なので現在批判精神ゼロ。最後の大仰なnintendoクレジットもおっけーおっけー。ぴーすぴーす。おれ映ってるー?あ、そういや、ろくにゲームの話もできないのに、にんてんどーの戦略とかドリキャスの明日は専務か常務かとかいう話をゲーム批評と勘違いしてるような文章を見かけることがあるが、人の会社の行く末を案じてる暇があったらゼルダのひとつもクリアしてみやがれってんだ。へへん。こちとらえどっこでい。やぶさめで1000点もクリアできないひよっこでい、参ったか。

おっと、そんなことを書きたいのではなかった。いやあよかったよねえ、最後のムービー。よかった、とはいっても、もちろんそれは「さあ帰りなさい 失われた時を取り戻すために!」とゼルダ姫に言われ、姫、その腹のポチっとナはヘソですか飾りですかはたまた肉じゅばんの模様ですかと思いながらも、ああ、このゲームに投入してもはや取り戻しのきかない時間からいまこそ解放されるのねってな虚脱感に酔ってたせいでもある。でもさあ。

いやあ、なんといってもあの大団円!マラソンの谷口のように(あるいは谷岡ヤスジのシペタ歩きのように)走り続けるあのおじさんがやっぱり走ってるよ。ぐるぐるまわるのが楽しいおじさんは、森の妖精にさかさにかつぎあげられてやっぱりぐるぐるまわってるよ。物乞いのおじさんはあいかわらずすごい勢いでばたばた物乞ってるよ(さかなゆずってあげたいよ)。じゅうたん売りのじゅうたんの上に博士と豆売りが乗ってフリークス3人むかいあってくつろいでるし、あちこちの店長さんたちは揃い踏みしてるし(おめん売りの顔がなんともはや)、城下町の腹をよじる男とか、話したことないけど高々と足を上げて走っていく男とか、踊り続けるカップルとか、そしてぼうっとしてるキングゾーラとか、とにかく、そういう端役のキャラいっこいっこから、各エリアで過ごした時間がぶわっと思い出されちゃう。

じつははじめのうちは、どいつもこいつも顔にテクスチャがはっついて気持ちわりい、とか思ってたんだけど、あらゆる角度から何度となく彼や彼女の横を通り過ぎた今となっては、もう気持ちいい悪いじゃなくて、ちゃんとその人たちのいる空間と時間をシェアしたんだなって感じられちゃう。たとえば、あの踊るカップル見るだけで、やつらを無視して城下町の閑散とした夜をつっぱしりカカリコ村へ急いだけなげなわたしを思い起こすではありませんか。風車の裏で再会したら相変わらず踊ってたやつらに、思わず爆弾しかけたことも思い出すじゃないですか。

むかし、吉田戦車の「戦え!軍人くん」で、紙に書いたファミコンのコントローラーもって頭の中でマリオやる軍人くん、てのがあった。あの頃、スーマリの映像思い浮かべて「あ、あのブロック上に1up!」的二次元世界を頭でなぞるだけでもけっこうぐっときてたわけだ。それが、いまや、いくつもの違う動きがひとつの空間の上をああにもこうにも掃いていくときたもんですよ。ひとつの空間上に幾層もの記憶がバウムクーヘンよろしく重なって、それもなんせ、延べ百時間(推定)は投入して動き回ったあげくのバウムクーヘンなもんで、手間暇かけて年輪重ねた洋菓子のぜいたくにも似て、ちょいとひとつの空間を頭に思い浮かべただけで、あのときあのときあのときを縦にさくっと味わってしまうわけです。

だからじっさいのところ、キャラがいなくても、ムービー最初の各エリアの映像だけで、もう涙ちょちょぎれちゃう。あ、いまちらっと映ったのデスマウンテンだよ、あそこのストーンサークルの真ん中には爆弾で穴が開けられるよ、そこを過ぎたらすぐにゴロンシティの入口だ、でもちょっと左に曲がると爆弾花があってそこから爆弾投げたんだよな、そうそう同じところから身投げもしたよ、身投げしてHPアップのかけらを取ったよ、てなぐあいに、画面の中をああにもこうにも動きたくなるめくるめく喚起力。ゲームとは行為空間菓子とみつけたり。

いやあ、空間をきっちり作るってすごいことだとつくづく思ったです。




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