田中智学と磐梯山噴火の幻燈大会


細馬宏通

 明治21年の7月15日に始まった磐梯山の噴火は未曾有の災害で、当時、多くの写真師たちがこの光景を撮影するために会津を訪れた。バルトンのみならず、読売新聞の記事から把握できるだけでも、田中美代二(新橋日吉町/新聞社に送付M21.7.31)、小口信明(本町三丁目/写真帖を発行M21.8.14)、鶴淵初蔵(浅草並木町 M21.9.13)といった写真師たちが、磐梯山に赴いている。

 中でも、各地で幻灯会を盛んに催して話題を集めたのが日蓮宗の在家宗教家、田中智学であった。
 彼は「ふと思付きて写真に撮り幻燈に視(しる)し人の感情に訴へて慈善福田の木鐸ともならばやと自ら思ひ」(磐梯紀行)、写真師吉原秀雄を説き伏せて、7月20日に上野駅を旅立ち、磐梯山周辺に滞在して写真撮影を行ない、7月29日に帰京すると、8月上旬から各地で幻燈会を行なった。
 噴火から二週間後とはいえ、幻燈会としてはきわめて速報性の高いイベントだったと言える。幻燈会は8月以来府内各所で行なわれ、9月8日の記事にも赤羽、本郷、神田、新宿、神楽坂、蛎殻と、場所を移して毎日行なわれる予定が記されており、人気のほどが伺える。

  田中智学の企画した幻燈会が盛況を博した原因の一つとして、写真師のみならず内容を談ずる智学自らが現地を訪れたことがあげられるだろう。体験からくるなまなましい田中智学の語りは、単なる説明をこえて強く観客に訴えたにちがいない。
さらに、彼は、その紀行文を「磐梯紀行」として30回に渡って読売新聞に連載した(明治21年8月5日-10月6日)。各回の記事には、幻燈会で使った写真の写しが掲載され、その内容はあたかも紙上幻燈会であった。じっさいの幻燈会の評判にも貢献したことだろう。

 智学が幻燈会でどのように語ったかは定かではないが、「磐梯紀行」の内容から、おおよそは推測できる。
 この連載の中には、噴火による熱、泥の感触、臭気といった、映像メディアで伝わらない要素がしばしば登場する。たとえば、人や馬の屍が放つ臭気を「一條の悪臭ぷんと鼻を襲ひ其くさきこと譬ふるにものなく目に染みて渋く鼻将にちぎれんとするに」と記したあとに

予はかの眩暈(げんうん)に心地迷ひしばしこなたに休らひながら懐中を探り用意の寶丹(ほうたん)を嘗め兎角して心地ようやく鎮まりければ

と、そのすさまじい体験を活写している。こうしたくだりは、幻燈会の観客を圧倒したことだろう。

 「磐梯紀行」からは、田中智学と吉原秀雄が、この未曾有の災害をいかに効果的に撮影しようとしたかも読みとれる。たとえば、噴火によって地面に吹き飛んできた火山岩の大きさを示すために、

写景の大小は遠近によりて変ずるものなれば小なりといへども近ければ大となり大なりといへども遠ければ小なり一々その公爵をするは面倒なり

と考え、近くから人を集めて岩の上に立たせ、写真に写された際の大きさを強調しようと試みている。あるいは、警察や小学校に臨時に開設された病室を訪れたときには、以下のような試みを行なっている。

今回遠く此地に来りしは務めて被害の惨状を視察し写真を以て其実況を示し人として慈善の心を増さしめんとの主意なれば悲惨の状況は漏さず写真に撮らんと欲したりしが不幸にも彼死屍捜索の日に後れたれば責ては負傷者なりとも写さんものと(以下略)

 結局、智学は警察と交渉して、重傷者の写真を何枚か撮影したのだった。このときの写真はのちに実名入りで新聞にも掲載された。今日の常識からするとえげつないとも言える試みである。

 災害現場を写真に撮り、その図像と引き替えに慈善金を得るというやり方は、明治後期になって流通しはじめた写真絵葉書でも踏襲されている。明治43年の東京大水害や大正12年の関東大震災で発行された災害絵葉書の中には、「慈善」目的で発行されたものがあることがその証左である。
 智学のアイディアは、後の災害写真の流布形態に、ひとつの形を与えたものだとも言えるだろう。

 幻燈会といい、写真の演出といい、智学の数々の機知からは、「希代のアイディアマン」(関井光男*)と呼ばれた彼の才能の一角が伺える。
 いっぽうで、宗教家としての智学の態度はどうか。宗教家が災害地を訪れた紀行文となれば、なにがしかの宗教的な啓示や考えの変化を期待してしまうが、この「磐梯紀行」に関する限り、そうした要素はほとんどない。智学は、天皇による罹災者への援助のありがたさを何度も強調し、田舎の人々を時に見下し時に彼らに同情を寄せるほかには、これといった宗教的思索を巡らしていない。現地で慈善活動を行なっている形跡もない。
 「磐梯紀行」の中には、祈りによって雨を降らし地を揺らしたという弘法大師の磐梯山伝説を一笑に伏す文章が複数箇所ある。智学の取材は、祈りや説法とは無縁のごくごく素朴な好奇心に基づくもので、結果として、のちの東京の人々の耳目を集め慈善運動をより効果的にするためのごくプラクティカルな態度となっている。
 文章に見られる智学の態度は、よく言えば豪胆、悪く言えば無神経である。現地の人々は、ときにはあふれる思いをぶつけるように、ときには智学の態度の大きさに押し切られるように話し始め、それが証言となって紀行の核をなす。そこに、大いなる自然の力に驚異し、田舎村での取材に困惑する智学の姿が織り込まれていく。そのため、紀行文としてはおもしろく仕上がっている。

なお、「磐梯紀行」には、計29枚の図が添えられており、読売新聞のWWWページではこれを「新聞史上初の報道写真」としている。
確かに29枚の図は、いずれも写真からおこしたとしか思えないディティールに満ちてはいるが、各図の細部には明らかに翻刻特有の線があちこちに見て取れる。おそらくは直接写真を製版したのではなく、いったん銅版上に人の手で模写し、それを印刷にかけたものではないかと考えられる。したがって、印刷史の上からは「写真画」と呼ぶのがよいのではないかと思うが、人々に与えた衝撃は、「報道写真」に匹敵する大きさだったであろう。


*最近出た『江戸・東京を造った人々』ちくま学芸文庫中に、関井光男氏の「田中智学と幻の海上都市計画」という文章が収められており、彼のアイディアマンとしての側面が記されている。



(2003 August 22)

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