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20000915
 オリンピックの開会式を結局ほぼ全部見る。何があってもずーっとあちこち伺うようにしてるアボリジニの大将。あのままずっと17日間様子を伺ってたらすごいな。グラウンドを歩くキンメダイ好感度高し。あの深海の部分は、スタジアムにいたらかなりキたと思う。
 しかし、日本の服装ダサ過ぎ。色もひどいが、あのマントじゃ、手をふったりできないじゃん。それとも南北統一を前に手が出ませんというパフォーマンスなのか。


20000914
さらに。

20000913
そそくさと帰り翻訳。

20000912
名古屋の大雨。
会議会議翻訳翻訳。

20000911
 朝、TVから「漫才のように手をあげましょう」と言うかけ声が聞こえる。「みんなの体操」で輪島直幸がバンザイをしているところだった。

 そのあと、「漫才のように手をあげましょう」を考える。「いとしこいしのように」でも「つっこむときのように」でもなく「漫才のように」だ。「しゃべりましょう」でも「うなずきましょう」でもなく「手をあげましょう」だ。「漫才」の中に、「手をあげる」という行為が含まれないわけではない。しかし、「漫才のように手をあげましょう」は「漫才のようにうなずきましょう」より確実におかしい。体の記憶のスキをつくような指示だ。

 そのあと、新しい「みんなの体操」を考える。

 「老後のように腕を体につけましょう」
 「特撮のように膝を伸ばしましょう」
 「登山のように振り向きましょう」
 「告白のように匂いをかぎましょう」
 「配達のように息を整えましょう」
 「通勤のように体を開きましょう」
 「残業のように耳をすませましょう」

 忙しい一日だった。

20000910
 夕方、水口へ。草津線で貴生川まで来ると、近江富士が見たことのない山間から見えて、別の時間層に入ったような妙な感じ。
 碧水ホールでFAXペーパー展。
 近くのスポーツセンターで水口薪能。後ろに古城山を望む借景の舞台。「海女」。段歌が終わったところで、海女の幽霊はとうとうと語りだす。「かくて浮かびは出でたれ共、悪龍の業と見えて、五体も続かず朱に成たり」
 海女が五体が切り裂かれ血に染まり、まさに幽霊とならんとする様を、当の幽霊で語らせる。幽霊が語ることで、幽霊と身体の間は引き裂かれ、物語の幽体はなおさら離脱しようとする。

 司会がしゃべりすぎるのが、興醒め。幕間や火入れの音楽もいらないと思った。秋の虫の音も聞こえて楽しいのに、なぜああして沈黙を埋めようとするのだろう。

 夜、万華鏡をTVにかざして見るうちに明け方に。向こうの風景をレンズで透かして見る万華鏡なのだが、テストパターンを見るといい感じ。

20000909
 夏の日記を追加。8/13まで。主なトピックとしては、

シュヴァルの理想宮
サンティナーツィオ教会のトロンプ・ロイユ
アール・ブリュット美術館のヘンリー・ダーガー
ブルバキのパノラマ

など。


 ゲーテがコロッセウムを見る、そのまなざしの「親和力」。空っぽのコロッセウムに観客を満たし、そこに自分を見るまなざしのしなやかさ。


(コロッセウムに)集まって見たとき、群衆は思わず自分自身に対して驚歎したのである。なぜならば、民衆は従来自分が右往左往、秩序も規律もなしに紛然雑然としているのを見慣れていたのに、この頭も多ければ心も雑多の、ふらふらとあっちこっちにうろついていた動物が、一つの高尚な体躯に合一され、一つの統一体に定められ、一つの集団に結合凝固されて、一個の精神に生きる一個の姿態となったわが身を見出したからである。卵形の単純な劇場の形は誰の眼にもきわめて快く感ぜられ、また一人一人の頭は、全体がどれほど厖大であるかを計る尺度の役をつとめる。現在、こうして空虚なさまを見ては、規準がないので、果して大きいのやら小さいのやら、一こうわからない。
(イタリア紀行/相良守峯訳/岩波文庫)


 前田愛が「塔の思想」で書いたように、塔は、遠くからまなざさせることで、「高尚な」視覚優位の見世物となった。しかし、塔から眺め、目の前の風景があたかも近くにあるように見えるとき、塔は単に視覚の専制をひけらかす見世物であることを止め、触覚の不在、聴覚の不在の見世物として現れるのではないか。「こっから飛び降りても着地できそうな気がせえへん?」「なんか声かけたら聞こえそうや」「わ、塔の影うつってる、わたしらあっこらへんにおんねや」といった先日の学生の発言が、それを裏づけている。そして、こうした感想は明治の新聞記事のあちこちにも表れている。塔は体制感覚を抑圧しただけでなく、体制感覚の不在をあらわにしたのだ。



 セダンのパノラマの資料を検討。
 前田愛の舞姫論とも言うべき「BERLIN 1888」には、じつは作為的な組み合わせがいくつもある。彼は鴎外がじっさいに見たと書いているライプチッヒやペルガモンのパノラマの中身についてはふれていない。それでいて、鴎外が記述していないセダンのパノラマについては詳細に記している。しかも、セダンのパノラマは、実際にはメインの360度絵画とジオラマの二つのパートに分れていたにも関らず、あたかもそのすべてがジオラマであったように書いている。さらには、こうしてねつ造されたパノラマのイメージと、鴎外が凱旋塔から見た眺めをつなげあわせている。つまり、この論には、多分に、編集作業によるイメージの混濁が見られる。

 こうした編集作業の倫理的な是非を問おうというのではない。学者なら誰しも、こうした編集作業からまぬがれることはできない。それどころか、こうした編集を駆り立てていく時間にこそ、文章が綴られていくことの秘密がある。彼がこうした編集作業を経て、どこに行き着こうとしつつあったかを問わなければならない。たとえば、「開化のパノラマ」と、未だ明治に登場していない「パノラマ」という言葉によって、明治を言い当てようとするとき、「パノラマ」という夢のようなことばが担わされているものは何か。「パノラマ」ということばは、いつからこのような磁力を持つようになったのか(それはたぶん梶井基次郎からだろう)。

 パノラマ・ジオラマ・塔。風景論者がしばしば恍惚として組み合わせ、現出させようとするイメージを、今一度解きほぐすこと。

20000908
 昨日に続きEMCA研究会。樫村氏の、規範をアカウントするという行為によって、規範がそのアカウントに先立って存在するかのような感覚が起ちあがる、というアイディア。

 帰りに浮世絵屋に寄る。何も買わないのだが、「版画なぶってたらしあわせですねん」というご主人の話を聞くのが楽しみ。同時代ギャラリーでコクヨのスクラップブック100冊を使った企画。木村・・・名前を失念したが、コソボの写真から始まって、ただ新聞をまっとうにスクラップしている人のがやけによかった。写真の選び方。見てるうちにスクラップブック買いたくなった。
 駿々堂はBook Firstという本屋になっていた。Book First -> Book Off という流通経路が透けて見えるような大胆なネーミング。最近できたのか、河原町のStudy Roomという店に万華鏡がいろいろあって驚く。

 京都には10数年いたので歩いていると、自分の記憶とのずればかりが目につく。昔の記憶の気配と雨の気配がまじって、じっとり汗ばんでくる。しかし気配をはっきりとした輪郭にするのはなんだかイヤで、つい本を買い込んでしまう。地下鉄に乗るときには、いつも両手にいっぱい抱えている。

 Elizaの改訂版AOLizaがAOLでマジで受けとめられて話題になったらしい。日本語記事はここAOLizaはここ。しかし、ログを見て驚くのは、プログラムの応対がオリジナルのElizaとたいして変わらないことだ。Elizaのソースを見たことがあるのでだいたい察しがつくんだけど、これ、プログラムレベルではほとんどいじられてない。セリフも大部分そのままだ。
 しかし60年代の人工無脳がこんなに有効だとはね。Elizaを知らない人がネットワークに入り続ける限り、何年たってもElizaは人を驚かせ続けるんじゃないだろうか。
 ぼくの人工無能に対する考えは20000720参照。現在のような形式で文字列をやりとりするチューリング・テストは、すでにELIZAをもって最終段階に近づきつつある。問題はむしろ、それとは異なる会話の時間を設けたときにどうなるか、ということだ。

20000907
 EMCA研究会。Sharock氏の話は、意外にも会社の構造を物語る当事者のことよりも、それを物語る氏自身の語りに魅力。当事者に物語らせようとしながらじつはもっとも雄弁に物語ってしまう研究者について考える。
 懇親会で、初対面の西阪氏、Beruducci氏とあれこれ話。
 

20000906
 どうも日記の検索とHypertext BoxのCGIがうまく働いてない模様。virtualavenueのPerl周辺の仕様が変わったのか? いまのところ未解決。

 まっとうにさまざまな仕事。いっぱいいっぱいですんません。

20000905
 深田恭子がピアノを弾いているのを見ると、発表会で知り合いの子に拍手しなければならないときのような気分になる。

 青土社から単行本の件で連絡。「いよいよ戦いですね」と言われる。編集者は〆切において敵であり出版において味方である。良い敵にめぐまれなければ戦いそのものが成立しない。いやまったく〆切は守りたいって思ってます、ほんと。

 まっとうに仕事。

20000904
 ベランのパノラマを見ながら、ゲーテの「イタリア紀行」。ベランがミュンヘン付近からアルプスを越えてイタリアをまなざす構図は、ほとんどイタリアへの渇望。
 阿倍勤也「物語ドイツの歴史」で頭を整理。整理しきれないのは、普仏戦争で敗退したブルバキ軍がスイス赤十字軍によって武装解除させられた文脈とか、トマス・ミュンツァーの農民戦争を現代の共産主義はどうとらえたかとかそういう瑣末な話。パノラマとはその時代のもっとも劇的な場面を写した絵、のはずなのだが、後から見るとえらく瑣末な場面だったりする。

 この年になってドイツ語勉強するとは思わなかったが、「NHKスタンダード40ドイツ語」。わたしの名前はペーター・パウルスです。たぶん、10年後に覚えてるのはペーター・パウルスだけだ。買い込んだドイツ語文献はいつ読めるのやら。
 で、英語翻訳。

 実習で学生と大学塔に上る。4往復するとけっこう疲れた。「こっから飛び降りても着地できそうな気がせえへん?」「なんか下におる人みんなに見られてる気がするわ」「わ、塔の影うつってる、わたしらあっこらへんにおんねや」など、興味深い発言続出。

 昨日書いたサウンド・オブ・ミュージックの話だけど、オフィシャルサイトのHistorical Archivesは、トラップ一家の話をあれこれ載せていて興味深い。やっぱええ年して一家で合唱団やりつづけるなんちゅうのはあれこれ確執があったみたいです。ちゅうか、その方が自然やわなあ。検索してて知ったんですが、トラップ一家物語ってアニメになってたんすね。

20000903
 まだ時差ぼけが続いているのか、昼に倒れるように寝る。妙な夢。ある民族が、カヌーに乗っているのを見る(どこから見ているのかはよくわからない)。荒れた海の上を、二人の男女が円を描くように漕ぎながら、恋の歌を交わす。すると、その周りを行き交うカヌーから一斉に合いの手が入る。で、その合いの手が入った瞬間に、「ここにはすべてある(なにが?)」と思い、ぼくは大泣きしてしまう。

 夜、ビデオで「サウンド・オブ・ミュージック」。いや、単にザルツブルク行ったんで、「あー、ここ行った行った」とか、そういう不遜かつ不埒な見方のつもりが、実は子供のときに見ただけだったので、ほとんど覚えてなくて、初めて見るように見ました。
 で、バカみたいですが、ぼくはてっきり「サウンド・オブ・ミュージック」って、高原でラララーって歌ってるジュリー・アンドリュースが子供と仲良くなって大佐と結婚して山で幸せを歌いました、ラララー、とまあ、そういう映画だと記憶してましたね。もちろん、前半部はそうなんですが、後半はほとんど反ナチ、逃亡映画なんすね。あのラストは、ハッピーエンドっちゅうより、まだ家族で逃げてる最中なんですね。しかし、あの軽装備で歩いて子連れでアルプス越えるつもりなんでしょうか(それもいったいどっちへ?)。「すべての山にのぼれ」なんて悪い冗談だなあ。いや、実際は徒歩じゃなくて車で逃げたそうですが。

 あと、「ドレミの歌」って、原作はわりとナンセンス歌詞なんだ、と気づいたりして。日本語訳はそれに比べて「みんな」「ファイト」「そら」「ラッパ」「しあわせ」と、うっとうしいほど盛り上がっててすごいと思いました。

 なんて、そんなこととっくに知ってました?

20000902
 とりあえず7月26日以降の日記を追加。いまのところHTML化できてるのは8/6まで。

 夜、ビデオで「ベルリン・天使の詩」を見る。公開当時に見たときとは、まるで違う感覚を得た。何よりも、いまは、この映画を良い意味で「ご当地映画」として見ることができる。天使のいる戦勝記念塔がどのような場所なのか。その天使が、ビスマルク時代に、そしてウィリアム2世、ワイマール時代を経て、ナチズム時代、そして戦後に担ってきたものは何か。なぜ、ベルリンにおいて天使は幾度もアイコン化され、天使をパロディ化しコスプレする者が繰り返し現れてきたのか。宿の女主人がこの天使の塔の絵を書いていたのは単なる偶然か。塔から眺められるティアガルテンの東の先にあるものは何か。老詩人が嘆くポツダム広場はどのような場所か。そうしたことが、あとから本で確かめるのではなく、映画の速さにようやく追いつき、想起される。その程度には、自分がベルリンの体験を得たことを知る。
 建て替えられ、塗り直され、幾層もの意味のまとわりついているベルリンの「天使」から色を奪い、映画は今一度、図書館に住まい、そっと人々に寄り添う天使を建て直さなければならなかった。その上で、ある意味で居心地のよい清らかな天使の静けさから、いかなる色が失われているのかを明らかにする必要があった。そして、そこから堕ちる天使を描く必要があった。ついでに情けないヨロイもオマケにつけてやる必要があった。

 ピーター・フォークがこすり合わせる手、そこで温められようとしている手の感覚は、比喩ではなく、この当時のベルリンに欠けていたものではなかったのか。おそらく壁という存在は、かじかんだ手が回復していく感覚を忘れさせるほど、人々を困憊させていた。鉛筆をいくら振ってもそれが手応えのないかりそめの物体であるかのように感じられるほど、何かが失われていた。
 これは、手と手をこすり合わせるように、女が男をまなざし男が女をまなざすと見せてじつは観客を見据えるように、東西をこすり合わせ、見据え、取り戻すべき色があること、取り戻すべき重さがあることを明らかにし、ここぞというところでソフトフォーカスで誘う、類いまれな政治的映画であり、それが、この映画が作られた1987年だったのだ。

 この映画では、ことばにならない考えが、ことごとくコンパクトなことばにたどりついている。そういうことばの確かさ(そして口にされることばとの、確かなギャップ)も、また取り戻されるべきものだったのだろう。

 ベンヤミンが「ベルリンの幼年時代」で取り戻そうとし、「一方通行路」で告発しようとした感覚について、そのほんのわずかなことばの力で世界を反転させていく手つきについて考え直すこと。

20000901
 時差ぼけで朝7時には目がさめる。翻訳。大学へ。成田君の論文を見る。ユリイカのブニュエル特集、特集に書くのは後出しのきかないぐーちょきぱーのようなもので、自分の書いたものが他人の文章によってまるでお恥ずかしいものになったり思わぬ拾い物になったりアサッテの方を向いてたりする。今回は四方田氏の文章から見てお恥ずかしく、斎藤氏の文章から見て拾い物で、しかしつまるところアサッテだった。アサッテとオリジナリティは紙一重である。紙一重の向こうにある満足。

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Beach diary