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20020927







 明日は帰国だ。リスボン観光らしいことをしにベレム地区へ。

 ジェロニモス修道院。とんでもない大きさの回廊をゆっくりと歩き、遮蔽の変化を楽しむ。回廊は石灰岩の凝った彫刻で飾られているが、それ以外には何もなくて意外に気持ちがいい。

 バスを途中下車してRua Vieira da Silvaの日本料理店OZEKIに。明日帰国するのにいまさら日本料理もないものだが、一昨日、写真アーカイブの係の女性に「すっごくおいしかった」と言われたので来てみる。朝日新聞が積んであるので、一週間分ほど読む。拉致問題の記事は、どれもこれも違和感ばかり感じさせる。なんというか、日本の主張が正しすぎてイヤな感じがする。正しすぎると感じるときには、たいてい何かが見えなくなっている。記事もさることながら、しりあがり寿のマンガが載っているのに驚く。
 拉致、寿司、天ぷらで腹一杯になる。値段は、旅行者向けのポルトガルレストランくらい。ネタはポルトガルでほとんど手に入るそうで、トロもエビも旨かった。カウンタの中にはもちろんエスプレッソマシンもある。

 少しバス移動して、国立古美術館へ。ボッシュの「聖アントニウスの誘惑」は意外に小さい。帆にかかる綱はほとんど蜘蛛の糸にしずくを垂らしたようで、白熱灯の光にきらめいて実に美しい。祭壇絵のようになっていて、扉の裏面には白黒で別の絵が描かれている。
 狩野派の描いた南蛮屏風。おもしろいのは、帆につながれた綱の上で遊ぶ幾人物の男たちで、綱渡りをしたり、足でぶらさがったり、曲芸まがいのポーズで絵に収まっている。この絵は教科書に載っていたはずなのに、綱渡りにはちっとも気が付かなかった。顔の浅黒さからするとインド系なのだろうか。
 2FとB1に収められていた、珊瑚と木彫と絵を組み合わせたキリスト生誕の様子も興味深い。今で言うところの「ジオラマ」の原型(あるいはクリスマス飾りの巨大版)。



 夕方、写真アーカイブへ。またまた長居。あれこれと説明してくれる彼女に、「リスボンっ子と見込んで質問なんだけど」とファドハウスのことを聞いてみる。

 リスボンに来た以上は、一度ファドを聞きたいとは思っていたので、ファドハウスの集まっているエリアを昼にうろうろしてみたのだが、どうもしっくりこない。「ファド&フォークダンス」などと書いてあって、妙に中が広々としていて、どちらかといえば、団体のパックツアー向けらしき店があちこちにある。かと思えば、中のうかがえない会員制クラブみたいな場所もあって、こちらは様子がわからない。
 仮にファドがポルトガルの「ブルース」であるならば、フォークダンスと一緒にやるのはおかしいし、かといって高級クラブみたいなところで見るのも何か違うような気がする。どうしたものか。

 「うーん、あんまりファドは好きじゃないんだけど」と前置きしてから彼女がくれたTipsは以下のようなものだった。

 「今日は金曜日ね、ということはファドを聞くにはいい日だと思うわ。ファドはね、あらかじめ決まった店に行ってそこに座って、という風には始まらないの。なんていうのかな、耳で聞くのよ」

 耳で聞く?

 「そう。通りに出て誰かが歌い出したりすることもあるし、店が少しドアを開けて道行く人に中の音を聞かせているときがあるわ。そういうのを聞くのよ。10時?だめだめ。まだみんな飲み足りてないわ。そうね、たとえば11時半くらいに行ってみるといいわ。最近はかなり安全になったから、一人でもまあ大丈夫よ。あ、カメラとかそういう高そうなものは持ってちゃダメ。それから、人のいない通りには出ないこと。人がいたらそこはOk。わかった?」

 あまり好きじゃないわりにはよく知っている。「あのエリアで育ったのよ。歩いている人がみんな知り合いみたいな場所だったの。ファドは身近すぎてあんまり好きになれなかったのかもね。」それでも、アマリア・ロドリゲスだけは聞くという。

 今日も閉館の時間を長々と過ぎた。そろそろおいとまします、というと、彼女は、「ちょっと待って」といって奥から大きなシートを出してきた。、見るとそれはテージョ河から撮影したリスボンの街並みの写真を大きく引き伸ばしたものだった。裏を返すと1863という年号が入っている。さっき、河岸の歴史の話をしたときに出た、この街を写したいちばん古い写真のひとつだった。「リスボンみやげよ」と彼女は言った。



 ガイドブックによればファドハウスの集まっているエリアは「夜10時を過ぎると犯罪の発生率が増加する」らしいし、「夜はタクシーを利用すること」とある。おすすめのファドハウスも何軒か載っている。たぶん、こうしたアドバイスに従ったほうが、より安全で確実ではあるのだろう。

 でも、ぼく向きの傾向と対策を授けてくれた彼女の話の方を信じることにして、11時半を過ぎてから、街に出る。人の行き交う小路を適当にぶらぶらしながら耳をすます。「Fado」のサインのある店の前にはたいてい男が立って通りを見張っているものの、声はなかなか聞こえてこない。どうしたリスボン。歌いやがれ。

 もしかしたらまだ夜が浅いのかもしれないと思い、とりあえず近くのバーに入って酒を飲みつつぼんやりすること1時間、もういいだろうと思い再びあちこち歩くものの、なかなか「耳」に響かない。
 試しに、わりと雰囲気のよさそうなファドハウスの戸口をのぞいて、椅子にすわっている男に、ここには本物のファディスタはいるか、と聞いてみる。すると、今から入ると損だ、と言われる。「ここは16ユーロする。本当は食事を入れてこの値段なんだ。でも、いまからだともう食事は出ない。酒代は別だ。ファドはあと1セットしかない。また明日来なさい」。
 午前1時ではもはや遅すぎるのか。明日と言われても、明日にはリスボンを発たなければならない。
 ライバル店を教わるのも気が引けたが、今夜が私のラストチャンスなのだ、今からどこかいいところはないか、と尋ねると、親切にも遅くまでやってる別の店を教えてくれた。なんていい奴なんだ。ぼくが彼の立場なら、マヌケな日本人をひっぱり込んで、16ユーロ払わせているところだ。握手して別れる。

 教えてもらった店の上にはなるほど小さなネオンが灯っていて、戸口には恰幅のいい男がむずかしい顔をして立っている。席はあるか、と聞くと、男はこちらを試すような目で見てから「いまはダメだ。もう少しして来い」と言う。もう少しとは?と聞くと「20分か30分かわからん。とにかくもう少しして来い」と言われる。戸口のうしろからかすかに歌声がする。いい声だ。「耳」にも響いた。もうここに違いない。

 近くのバーでビールを飲み、きっかり30分たってからさっきの店に行くと、男は「もう少しだけ待て」といって、中から拍手が聞こえてきたところで、黙って道を空けてくれた。

 中は4人掛けの丸テーブルが10個足らずといったこぢんまりとした作り。唯一の空きテーブルに座る。壁のあちこちに貼られた写真は店のゆかりのものらしく、アマリアの写っているのもある。悪くない雰囲気だ。ステージ、というほどのものはなく、壁がドーム型に小さく窪んだところに椅子がハの字に二脚。これが伴奏者の席らしく、丸禿に眼鏡の男が一人、演奏を終えたところなのかギターラを拭いている。
 ドリンクのメニューを見るとジンが4ユーロ。Barの5倍はする。ファドが聞けるのならまあこんなものなのだろう。

 あちこち眺めていると、丸禿の男と目が合う。彼は明らかにこちらに向かって愛想よく笑うと、身を乗り出して軽くつまびきはじめた。達者で、少し粗っぽい「スキヤキ」の変奏。まだ場の雰囲気がつかめてないので照れくさいような居心地が悪いような気分になる。
 拍手をして、男に握手を求める。「よかったか?」と尋ねられる。よかった、と答えざるをえない。すると、彼は椅子のそばにあったCDをとって戻ってくる。「息子と弾いてるんだ。よかったら買わないか。20ユーロなんだが」もちろん、と言わざるをえない。

 CDのジャケットを眺めながら、ジンを飲んでいると、奥に引っ込んでいた男が息子らしきもう一人を従えて、テーブルをすり抜けていく。とつぜん灯りが消えてスポットだけになる。戸口で店の男が、さっとカーテンを後ろ手に引く。にわかに恐い顔になる。これは何かの罠か。脅されて有り金をすべてまき上げられるのか。スポットの下には、いつの間にかショールを肩にかけた女が立っていて、朗々と歌い出す。
 その歌声の大きさにも驚いたが、何より驚いたのは二人の伴奏だった。さっきのスキヤキとはまるで違う。大きなうねり。女の声が伸びると、大波どうしがぶつかりあうように、ギターラとヴィオーラ、それぞれのアルペジオが砕け散る。ことばがまとまると、また一つの大きなうねりになる。一弦一弦から水しぶきが立つ。船を鞭打ち、船を運ぶように弦の対旋律が声にぶつかっていく。
 そして、ひときわ声が大きくなり、弦の海からあがったばかりのように、ぎらぎらとその声が伸びたところで、各テーブルから拍手が起こる。明らかに歌詞を解していないのはぼくだけだ。

 5曲ほどで灯りがつく。奥に引っ込もうとするギターラの男に、今度は掛け値なしに、すばらしかった、と声をかける。さっきのCDにサインをしてもらう。ジンをおかわりする。少し目の前が揺れているようだ。ここに来るまでに何杯か飲んだのが効いているらしい。

 なごむことしばし、またとつぜん灯りが消えてスポットだけになる。戸口で男がさっとカーテンを後ろ手に引くと、自らそのスポットに歩み寄ってきて朗々と歌い出す。無駄な動きはない。毅然と、歌う灯台のように立つ。そこから警句のように声が響き渡る。弦の響きが砕けては重なる。

 また5曲ほどで灯りがつく。ギターラのそばのテーブルが一つ空いて、そこに若い一団が入ってきて軽い食事を注文している。まだ居てもだいじょうぶらしい。ギターラの男が、また歓迎の意味なのか簡単な曲をつまびく。息子はヴィオーラを膝に抱いたまま休んでいる。最前列に陣取った若い女がじゃれるようにその弦をじゃらん、じゃらんとなでる。息子は気がなさそうに、左手で簡単なコードを押さえる。

 さらにジンをおかわりし、なごむことしばし、暗転、スポット、戸口で男がカーテンを後ろ手に引くと、ヴィオーラと戯れていた女が立って歌い出した。さっきの男よりもなお声量がある。堂々たる歌いっぷり。そばのテーブルからはもちろん猛烈な拍手。取り巻きなのだろうか。

 三曲め、歌が佳境に入ろうというところで、誰かの着メロが鳴る。こんな場所にも携帯を切り忘れる無粋な奴がいるのかと思ったら、また鳴る。音のする方を見ると、隅のテーブルの男が、驚いたことに携帯の液晶を歌い手の方にかざして、また着メロを鳴らす。伴奏のつもりなのか。しかし若い取り巻きたちは男をにらみつけている。いやがらせか。ならば男は何が気に入らないのか。歌い手はこの夜いちばんであることは間違いない。あるいは歌詞が不満なのか。

 女はつかつかとこちらに寄ってきて、携帯男を背にすると、ぼくのテーブルに手をかけて歌い出す。見上げるような彫像だ。長いまつげ。高い鼻。その下でぱくぱく動く口から発せられる声。目の前で、女の腹筋が躍動している。
 それからまるまる一曲、彼女はその場所で歌った。もう携帯も鳴らない。良いも悪いもない。声でこちらの体が震える。彼女のスピーカーになってしまった。このテーブルで、歌われるままに鳴るばかりだ。

 ひときわ高い拍手が起こって、ライトがつき、彼女は取り巻きのテーブルに戻った。携帯男は勘定を払っている。別段店からとがめられている様子もない。長編怪獣映画でも見たような気分だ。そういえば目の前がやけに揺れて、ひどく酔っていることに気がつく。これが潮時だろう。勘定を済ませて表に出る。

 さすがに人通りはまばらで、あちこちの小路は空になっている。「人のいない通りには出ないこと」。人影が降りていくのを見つけて、同じ坂を下る。街灯に照らされた人影はこちらを振り返って足を速める。携帯男だ。こちらも足を速める。つけているのではない。彼が頼りなのだ。

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