(3)

 わたしは、あるべきものの不在を感じたからといって、即座にそれを「忘れていた」という風にはとらえない。自分自身の感覚の不在を感じなければ「忘れていた」とは感じられない。自分の為すべきだった行為や感じるべきだった感覚に気づかない人は、「忘れた」「忘れていた」と言うことすらできず、いわば、忘れそこなうことになる。
 しかし、他人がかかわることで、時空間の配置は変化します。いったん「忘れそこなった」としても、他人が時空間の配置を変えることによって、わたしが自分の感覚の不在に気づく可能性は残されています。
 では、他人がこのようにわたしの「忘れ」にかかわるとき、そこではどんなことが起こるのか。
 
 再び、「東京物語」の会話を見てみましょう。
 とみは、「ありゃあせんよ」と、空気枕が自分の周囲にないことをくりかえし周吉に訴え続けます。周吉の考える時空間配置は、くりかえし見直しをせまられます。おもしろいことに、この過程で、とみと周吉は、問題の「空気枕」ということばをくりかえすとともに、空間配置に関する指示語である「そっち」「こっち」ということばを盛んに発しています。
 ところが、空気枕が周吉の目にとまったとたんに、こうした指示語はひとことも言われなくなります。「あ、こっちにあった」「ほれ、そっちにあったでしょうが」といった空間にまつわることばは後半では使われません。そのことが、かえって不自然で、なにかが隠されているような奇妙な感じを見る者に与えます。やりとりの後、カメラが無言の二人を映し続けることで、この奇妙な感じはいっそう増します。
 
 そういえば、とみは、「ほれ、あったでしょうが」「忘れていたんでしょうが」というような、周吉の責任を問うようなことばを言いません。とみは、周吉の発見を「ありゃあしたか」と認めるものの、周吉がそれまで空気枕のありかに気づかなかったこと、つまり、不在に対する感覚が不在だったことには、ひとことも触れません。明らかに周吉は空気枕のありかを「忘れていた」のですが、老夫婦はそれを「周吉が忘れていた」というふうには言い当てない。

 このやりとりで、まず周吉は、空気枕に対する自分の感覚の不在に気づかず、それをとみの感覚の不在のせいにしました。次に、とみとの指示語のやりとりの結果で、周吉は自分の感覚の不在に気づき、空気枕というさがしものに気づきました。そして、自分の不在感の不在を、とみに指摘されずにすみました。
 かくして、空気枕は「忘れていた」存在であることをまぬがれる。

 しかし、カメラはなおも意地悪く、だまって作業を続ける二人映し続けます。先に、この場面には周吉の「気まずさ」が現われていると書きましたが、じつはここに現われているのは、単に自分を棚にあげてとみのせいにしていたことの気まずさだけではありません。そのことを指摘されずに済んでしまっていることの気まずさが、ここには現われているように思われます。
 そして奇妙なことに、この冒頭以降、周吉はまるでこのやりとりを克服しようとするかのように、とみの忘れをことあるごとに見つけようとします。

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