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 周吉の「忘れ」がちらと見える、印象的なやりとりがあります。それははじめて訪れた紀子(原節子)のアパートの場面です。
 周吉はタバコをくわえてからポケットをぱたぱたと探ってからマッチがないことに気づきます。そして、とみの前にあるマッチに気づいて「ん」と手をさしのべます。とみは少し遅れてそのしぐさに気がつき、「あい」とマッチを差し出します。
 このやりとりは、うっかりすると、気のきかないとみが周吉の求めに応じてようやくマッチを差し出した、というふうに見過ごされかねない。しかし、そうではない。

 とみはタバコをたしなむようすがありませんから、おそらくこのマッチはアパートについてから周吉自身がそこに置いていたのです。にもかかわらず、周吉はまっさきにとみの前を探すのではなく、まずポケットを探っている。ささいなことではありますが、自分がどこにマッチを置いていたかを「忘れていた」のは周吉のほうなのです。
 視線を移した周吉は、とみの前にあるマッチに気づきました。そして、あたかも自分ではなく、とみのほうがそのマッチの存在に気づいていないかのように、とみに向かって手をさし出します。周吉は自分でマッチをとりません。手はマッチに届くことなく、とみの感覚の不在を指し示すように途中で止まります。とみは遅れてそれに気づいて、マッチをとって、止まっている周吉の手に渡します。

 人はそもそも、自分の身の回りのできごとすべてを意識できるわけではない。そして意識できないものすべてを「忘れている」わけではない。必要が生じたとき、身の回りの中の特定のものに注意を向けようとする。それがうまく行かなかったとき、そしてその原因が自分の感覚の不在であるとき、「忘れている」のです。
 この場面で、マッチを必要としていたのは周吉であり、とみにはもともとマッチに気づく必要がありませんでした。必要がない以上、とみには「忘れ」は発生のしようがない。しかしその、必要のなかったものを周吉から求められる。そのようにしてようやく、とみには、マッチをさがして周吉に渡す必要が生じました。目の前にマッチがあったとはいえ、とみ自身にはマッチは必要なかったのですから、とみの意識の遅れはむりもないことです。が、その遅れが、あたかもとみ自身の「忘れ」であるかのような動きを生じさせます。

 周吉は、とみにマッチを要求することで、マッチのありかに対する自分の意識の遅れを、とみの(要求に対する)意識の遅れに変換している。マッチをとる、というごくありふれた動作の中で、周吉の「忘れ」は、とみの「忘れ」へとすりかえられているのです。

 小津安二郎は役者に細かい演技をつけたことで知られています。この場面でも何らかの指導があったのかもしれません。しかし、いくら細かい指示をしようと、役者自身に、意識の遅れに関する経験がなければ、このように微細なタイミングでことが起こるはずがない。
 周吉やとみに限らず、わたしたちは日常的に、自分の意識の遅れを相手の意識の遅れへとすりかえる術を使っている。ただ、そのことを自分では気づいていないだけです。笠智衆と東山千栄子の二人は、俳優だからこそ、ふつうの人なら気づかない微細なずれを、自らの経験から引用することができたのでしょう。

 では逆に、この場面のしぐさのずれは、二人の俳優の日常経験からたまたま引き出された、偶然の産物なのでしょうか。わたしはそうは思いません。なぜなら、あとで見るように、この映画には、周吉が自分の「忘れ」をとみの「忘れ」へと変換する微細なやりとりがあちこちに見られるからです。

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